作家としての「富野由悠季」

 はじめに。
 富野由悠季は多くの小説を書いており、ファンの中には「○○(作品名)を読んでいないのに語るな!」という方もいらっしゃるだろう。

 ぼくは全著作を読んではいないが、これから語ろうとしている考えは、それらの意見とは離れた場所に位置する。(5月2日記。かなりの自惚れを込めて)


 もう随分と昔の話だが、宮部みゆきさんのミステリー小説『火車』をたいへん面白く読んだ。

 多重債務をテーマにした魅力的な推理小説だったが、この作品が第108回直木賞候補にあがった時、選考委員の1人である平岩弓枝さんはこう評した。


「一つだけ、これは私自身、若い日に恩師から教えられたことだが、資料や調査は百パーセントやり抜くこと、ただ、作品にとりかかる時はその八十パーセントは思いきりよく捨てる、それも自分の内部に完全に消化させて捨てるのが、作品を成功させる秘訣だという真実である。」
 http://homepage1.nifty.com/naokiaward/senpyo/senpyo108.htm


 無論、宮部みゆきさん程の手だれであれば、「説明してもおかしくない場面で」「説明してもおかしくない人物」に説明させている。
 それでも『火車』を読んだ人間ならば、平岩さんがどの箇所を指摘しているのか、容易く察しがつくと思う。

 富野の、2014年現在では一番近著の小説単行本である『リーンの翼』を読み始めた時、すぐ脳裏に浮かんだのは平岩さんの上記の言葉だった。

 富野はこれまでに、70冊以上の小説を出版している。
 その意味では作家であり、それもキャリアの長い小説家である。

 また、ぼくのように「作家・富野由悠季」に否定的であっても、指摘するべき功績がある。
 それは小説版『ガンダム』によって、アニメのノベライズに大きな需要があることを証明してみせた点。
 また、監督自らが小説化を手掛け、さらに本編とは違うストーリー展開を提示したことも、特筆されるべきだと思う。

 これらの大きな功績を残しつつ、しかしやはり富野は作家としての重要な要素が欠落している、とぼくは考える。

 富野が勉強熱心であることは、そのファンであるならば異議のないところだろう。

 アニメではその勉強の成果が、元が分からないほど作品に溶け込んでいる。
 これはアニメーション制作が集団作業であるのも要因の1つだし、絵で見せることができるのも大きいだろう。

 しかし小説になると、勉強した部分がそのままに作品中に現れる。
 勿論、ジャンルによっては―例えば歴史小説などは―それが必要な場合もある。だが富野小説の場合は当てはまらないだろう。

 富野は学んだ成果を、「物語の要請」がないのにストレートに書き連ねることを、全く躊躇っていないように読める。

 『リーンの翼』の序盤から例を拾えば、特攻(機)の説明や、39ページから始まる軍隊手帳のくだり、122ページの戦艦建造技術に関する話など、枚挙に暇がない。
 『リーンの翼』はぼくが久し振りに読んだ富野小説だったが、途中まで読んで「やはり作家としての富野はダメだな」と思った。

 理由の1つはこれまで述べてきた点、もう1つは「視点」の問題である。

 ぼくの作文における座右の書であるデイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』から、「視点」についての説明を引用する。


 怠慢な作家や未熟な作家にありがちなのは、視点の扱い方に一貫性がないことである。たとえば、こんな物語があったとしよう。ジョンがはじめて故郷を離れて大学に行く。その物語がジョンの体験のままに語られていく――荷造りをし、最後に寝室をぐるりと見回し、両親に別れを告げる――が、突然、何となくここで他の視点を入れたほうが面白そうだと考えた作者が、ほんの数行だけ母親の意識を差し挟み、それからまたジョンの視点から物語を書き進めていったとする。(中略)視点の変更が何らかの審美的な構想や原則に従ってなされるのでなければ、作品への読者の参与が、読者によるテクストの意味の生成が妨げられてしまうだろう。(中略)
 実際のところ、語りの視点を一つに限定することによって物語の鮮度や迫真性はいくぶん高まる――少なくともジェイムズはそう信じていたはずだ。(47-48ページ、「ジェイムズ」はヘンリー・ジェイムズのこと)

 

 無論、小説における「視点」は原則であっても、遵守すべきものではない。事実、直木賞クラスの作家でも視点を無視している作家はたくさんいる。
 それでも読者に不利益がなければ、何の問題もないと、ぼくも思う。

 富野の小説において「視点」が危うい場合は、キャラクターAからBへの変更ではなく、Aから神(作者=富野)への描写移動がほとんどである。
 ぼくは当初、例えば『Zガンダム』で「空戦の描写などこんなものだ」なんておかしな文章が突然出てきても、富野は分かった上で「視点」を無視しているのだろうと思っていた。

 もっと詳しく書けば、もともとアニメでは各キャラクターの動きを追うことで大きなドラマを作っていく富野だから、「視点」を守っては小説を書けないのだろうな、と考えていた。

 だが数年前、『富野由悠季全仕事』を読み返した時に、ぼくはそれまでの自説に疑問を抱くことになった。
 キャリアのある作家に大変失礼な話だが、ひょっとして富野は「視点」を理解していないのではないか? と思ってしまったのだ。

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作家としての「富野由悠季」

坂井哲也

130円

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コメント16件

小説家として富野に可能な部分の結晶が『王の心』にはあると思います。ですが自分は、『リーンの翼』三巻(寺田克也が表紙書いてる方)こそ、上記の未分化な面白さがようやく受肉した、素晴らしいイメージそのものだと思います。もちろん「イメージそのもの」なんてものがこの世に存在できるはずないのですが。そう感じてしまいます。迫力です。お勧めです。
有料記事の中身をあんまり書くわけにも行きませんが、『リーンの翼』三巻は、坂井さんの言う「重複」や「交錯」が、グッと拡大しているきらいがあります。ですから自分は演出家/小説家という枠の外で、これを捉えたいなと思ってしまうのです。(まあ単に自分が富野が好きすぎて、尋常でないだけかもしれませんが)
丁寧な返信ありがとうございました。演出家・小説家の枠の外で富野を捉える文章をもし書かれるなら、ぜひ読んでみたいです。『王の心』はねー、持ってないんですよ。発売時に買っていれば良かったのですが…将来、ネットやブログなんてものができて、富野ファンと交流できると当時知っていたら買っていましたが(笑)。しかし改行できないコメント欄ってどうなんだ…
イメージそのもの、などというナイーブ過ぎる言葉に反省しつつ)そうですね、このコメント欄は酷いつくりですねw。 王の心は、血族のエピソードと敵国とのエピソードが、いささかぎこちなく並んでいるのが傷ですが、僕は大好きです。富野のビザールな才能が原石のまま濡れ光っています。
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