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学べる機会にあずかれること。





かなりな工数を経て、
研修の実施日が訪れるのだけれども、
そんな事はつゆ知らずか、
ほんのごく一部だけれども

「こんなんやってやれっか」

とばかりに一番前の列であっても
足を投げ出し下から見上げて
中には睨むようなご参加者がいらっしゃる。

ともすれば手順や説明を聞かないので、
全体の進行が滞ることもある。

上から言われたので仕方なく来たのだろう。
でもこれは、自分が「仕方なくでも参加する」と
自身で決めているからここに来ているわけだ。

自分で選んでいる自覚がない人って、
厄介な場合がごくたまにある。

宥め賺して、「彼そのもの」
よりも全体に悪くないよう配慮し
最後部で見てもらうだけにして参加と
みなすなど、色々気を配る。

そしてまた、
ギリギリまでワークをやらないので、
次の手順で全体を止める事になるその人たち。

学ぶって、
誰かが必ずコストを頑張って出してるはずで、
とっても有り難い(なかなかあることではない)
ことで尊い事なのに、捨てるようにその時間を「無駄」
にしたり捨ててくれる。

場合によってはその拠出元は
税金かも知れないし、公的な予算や宝くじなどから
齎された社会活動に使うための資金が背景にあるかも
知れない。

時として、基本わたしは超短気なので
代理店と事務局にその場で「この登壇、契約を
降りさせていただきます。損害賠償はやりますので、
ここからは個人としての行動です。」
と宣言し、遠慮なく「彼ら」を引きずり回したい
くらいの『指導』や『かわいがり』をしたくなる時がある。
(売られたケンカは基本買うのだ。)

学べるという機会に感謝の無いひとって、ダサい。

どの講師か、どんな内容かといった事柄以前に、
私たちは彼らも基本、一人の成人として扱う。
"そんなとき"は容赦無い。

すぐに問題だ、事件だと騒ぎ立てる事で、
捻じ曲がった権利だけを主張する情報だけ持ったので
分かった気になる幼年が増えたので、
「大人の怖さ」を知らない「子供」が増えた気がする。


いま、社会で職場で、常識・見識・良識教育・ひととしての
最低マナーまで手取り足取り教えて差し上げないといけない
事業所が増えてきている。

あれしてくれない、これしてくれない、これがない、
あれもない‥要求ばかりだ。

育ちもあるだろうが、
学べる機会に、もっというとそもそも
働ける事に感謝を忘れた人は、きっと
(仕事にも人生にも)文句ばっかり言っているだろう。

何とかなるとおもっているのだろう。
何とかならない事態、再起不能になって
はじめて慌て間に合わずという目に遭っていないのかな。

参加者に人生の先輩年齢の方がいて、
建設的なテーマを用意ください、とリクエストしたが、
「俺はもう諦めているので」と仰るので、
『では諦めた人生を達成されてください』と
率直に申し上げた。

ちょっと厳しいかも知れないが、
もう優しさまでは配らない事にした。
丁寧で穏やかに分かりやすく無理させずといった
進行はプロとして行うが、甘えには付き合えない。

学ぶ機会に巡り会えている自分の運の良さや
有り難さを、せめて経営者への配慮や慮り、感謝を
イメージくらいはできるわずかでもいい想像力は、
いくつであろうがもっていて欲しいな。

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