念覚① 念覚と観念世界

本記事では、僕が考案した「念覚」という観念について説明します。

もともとは絵本の読み聞かせについて考えていました。読み聞かせが子どもに届けられる情報を感覚刺激の観点から整理していたときのことです。読み聞かせで発する、絵本の中の世界や教訓そのものが、実は感覚刺激なのではないか、とふと思い至りました。すなわち、観念とは感覚刺激なのではないか。
『世界大百科事典』によると感覚刺激とは「受容器,伝導路および感覚野によって一つの感覚系が構成される。環境の中のいろいろな要因のうち,受容器に反応を引き起こすものを感覚刺激といい〜」とあります。
この構造から、観念とは脳そのものを受容器とする感覚刺激なのではないかと言えます。これは感覚自体の進化を考えると妥当性があります。すなわち、進化の過程で新しく生じた感覚は中枢神経に付随して発生するのです。例えば視覚はもともと中枢神経が光刺激を直接受容していました。
このことから、
1 人間は観念を感覚として獲得した
2 進化途上であるため中枢神経に付随しており、以後の種では分離して発達する可能性がある
3 念覚と他の感覚の共感覚を持つ者が存在しうる(登阪は視覚との共感覚を持つ)
4 心の実在とは念覚そのものである
といったことが言えるかもしれません。

これを思いついた段階では、そういうものが考えられるなあとしか思っていませんでした。この時には悩みもありません。
その後、生きがいの喪失を自覚し、今日改めて本気で向き合ってみて、以下のような哲学および生きがいを獲得しました。
まず登阪哲学の出発点として、世界は観念でできています。
例えば『iPad』という観念があります。この観念は「タブレットである」「アップル製品である」「タッチパネルで操作する」といった観念を内包しています。また、物質的な境界(すなわち、質量を持つモノとしてのiPad)も観念に組み込まれます。また、この観念は他の観念と"接触"することで異なる観念を生じます。例えば『iPad』と『登阪亮哉』が接触した時(この場合の時とは時間的なものではありません)「登阪はiPadめっちゃ好き」「ノマド目的で購入した」といった観念が生じます。
すなわち観念はその中に観念を内包しており、かつ他の観念との接触によって異なる観念を生じます。
ここで観念の基本性質について定義できれば良いのですが、後述の理由によりそれは不可能です。
この世界観では観念はひたすらに生じ続けているものであることがわかったと思います。また、この言い方では我々が知らず知らずのうちに「時間」「言語」という観念に影響を受けています。実際には、「(以上のような)観念の性質」と「時間」という観念が接触したときに、「生じ"続け"て」といった表現が生まれます。加えて、「言語」と「観念」が接触したことにより「接触」といったことばが直感的に用いられます。これは観念に境界があるかのようなイメージをもたらしますが、実際には少なくともその境界はぼやけているだろうし、さらに言えばその境界自体が「観念」と「境界」の接触によって生まれたものでしょう。

ここまでの僕の口ぶりから、観念一つ一つに対して僕が冷めた態度を取っていることに気づかれたと思います。「◯◯は(所詮、)〜〜だ。」といった態度です。
これはやはり以上の考え方から説明できます。各観念の重要度やその優劣といったものは、それぞれと「重要性」「優劣」「評価基準」などが接触した時に生じるものなのです。重要なそれらは、全くそうでないものと並列に、この世界に存在しています。

いったんここまで。

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