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「ダブりあう大多数」のなかで生きる

夜の街で路上カウンセラーをしていると、目の前を無数の人が通りすぎる。

部活終わりの学生や、飲み屋をはしごしているサラリーマン、手を繋いで仲睦まじく歩くカップル、一眼レフを首からさげた外国人観光客。

路上カウンセラーをする前は、皆違った人間だと思っていた。

世界の人口がおよそ70億なら、70億の異なる人格があり、人生があると思っていた。


ただ、どうやらそうではないらしい。

ダブリがある。


「おい!無料で話聞いてくれるって!お前聞いてもらえよ!ウェーィw」
「いいよwお前聞いてもらえよ!」


「あ!見て!無料で話聞いてくれるらしいよー!」

「マジでー!?w聞いてほしいーwキャハハw」




どこので聞いたことがあるようなリアクションをして通りすぎていく人達。



「ナンパの仕方教えてくださーい!」

そういって僕のとなりに座り込み、通りすぎる女性に声をかけ出すヤンチャな若者たちには、数えきれないくらい遭遇した。



「人は一人ひとり違う」とむかし小学校の先生が言っていた事の真偽が僕の中で大きくゆらぐ。

皆おんなじような反応をして、おんなじような事を言う。


だからこそ、ごくまれに遭遇する「型からはみ出たひと」はスゴく輝いて見えたのだが。

「人は皆違う」というよりは、「皆と違う人もいる。」といった方が正しいのではないか。
最近そんなことを考えるようになった。

そして、自分が「ダブりあう大多数」の中に入っていないと信じていた僕だったが、それは間違っているのかもしれないと思うようになった。

僕も多分ダブっている。東京のどこかの大学生と。札幌のサラリーマンと。島根の巫女さんと。アメリカの移民と。イタリアの主婦と。アゼルバイジャンの神父と。

正確には、必然とダブりがでるようなシステムの中で生かされている。

知らず知らずのうちに。



「目の前を通りすぎる人をよく観察しながら、ノートに気付いたことを書いてみるといいよ。」


来月NIKEとの契約が切れるというプロゴルファーの人にそう言われたことがある。

あれは、ダブりがあるということを僕に気付かせたかったのか、それともダブりの中にわずかに垣間見える差異に注目しろと言いたかったのか。

もう会うことはないだろうし、聞くこともできない。

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