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この旦那にしてこの妻あり!! 天龍源一郎を支えたまき代さん■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は天龍源一郎を支えたまき代さんです。

過去記事まるごとセット/2022年8月
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――先日お亡くなりになった天龍さんの奥さん・まき代さんとは、小佐野さんはかなり長いお付き合いだったんですよね。

小佐野 そうですね。全日本プロレスの担当記者になったのが1984年なんですけど。あの当時って携帯電話がなかったので、シリーズオフの取材は自宅に電話するしかないんですよ。そうすると奥さんのまき代さんが電話に出るので「『週刊ゴング』の小佐野と申しますが、天龍さんお願いします」と。接点はそこからですよね。その頃のまき代さんは会場にも来ない。あとから聞いたら、世界最強タッグの最終戦だけ見に来ると。

――1年の終わりに顔を出すってことですね。小佐野さんが顔を合わせてお付き合いを始めたのは、いつ頃になるんですか?

小佐野 天龍さんが全日本プロレスをやめた翌日ですね。天龍さんが全日本プロレスをやめたのは1990年4月。4月19日に最後のジャンボ鶴田戦を終えた天龍さんは、26日に馬場さんと最後の話し合いをして退団。そのニュースが業界中を駆け巡りますよね。私はその日の夜に天龍さんに電話をして「インタビューさせてほしい」と頼んだんですが、もう全日本所属ではないから全日本の事務所では取材できない。どこで取材するとなったら、手っ取り早いのは天龍さんの自宅しかないわけですよ。その取材で初めて天龍さんの自宅に行ったときに、まき代さんとお会いしたんです。

――やめた翌日の4月27日にはさっそく取材をしたんですね。

小佐野 そうですね。その頃、天龍さんは千歳船橋のマンションに住んでました。帰りはまき代さんの車で千歳船橋の駅まで送ってもらって。そのときは天龍さんがいないから、まき代さんと2人っきり。そこで初めて一対一で話をした。私が「天龍さんがこんなかたちになっちゃって不安はないですか?」と聞いたら「13歳でカバンひとつで福井から出てきたわけだし、家族さえ見失わなければそれでいいんです」と言っていたことを覚えてますね。

――そこからまき代さんは天龍さんのマネージャー的存在として関わるようになったんですか?

小佐野 いや、まだそういうわけではなかったです。SWSのときは団体所属だから何かやることはなかったけど、SWSができるまでの取材応対は彼女がせざるをえない。だから私だけじゃなくて、週プロや東スポの取材応対もするし。

――まき代さんは性格的にはどんな方だったんですか?

小佐野 すごいさばさばした、京都の人、関西の人と感じですね。印象に残ってるのは、88年に『ひるのプレゼント』というNHKの番組に、元子さんと保子さん(ジャンボ鶴田夫人)とまき代さんの3人で出たときがあって。

――伝説の番組ですね(笑)。

小佐野 そのときのまき代さんの受け答えがすごく面白かった。たとえば「夫婦関係はどういうものですか」みたいな質問が出ると、保子さんなんかは「テニスのラリーのようなもの」なんて、ちょっとおしゃれなこと言ったりするんだけど。まき代さんは「いや、プロレスです」と。「ご主人の趣味はなんですか?」「プロレスです」「ケガは心配じゃないですか」「本人が納得してやってるんだからしょうがないんじゃないんですか」とサバサバ答えていて。その番組を阿修羅・原さんが見てたらしくて「いやー、源ちゃんの奥さん最高だったね。いかにも源ちゃんの奥さんらしいよ」と笑ってたのを思い出しますね。

――だから天龍さんも任せられたんでしょうね。

小佐野 それこそ天龍同盟の頃は肩で風を切って歩いてる天龍源一郎だから、この旦那にしてこの妻ありで。あと覚えてるのは、天龍さんが89年2月にWCWに出たとき。1人でアメリカ遠征中の天龍さんの家に泥棒が入ったんですよね。まだ幼稚園生だった娘の紋奈さんが逃げていく泥棒の後ろ姿を見てしまったという。そのときはマンションじゃなくて購入した一軒家。泥棒が入ったことがあってマンションに引っ越すんだけども。まき代さんはアメリカにいる天龍さんに泥棒のことは言わなかったんです。アメリカの天龍さんに心配させたくないから。

――そこまで気遣いが……肝も据わってますねぇ。

小佐野 でも、全日本の関係者が天龍さんに泥棒の件を教えちゃって。天龍さん、いったん日本に戻ってきて、家族の無事を確認してから、またアメリカに行きましたね。

――天龍さんもさすがですねぇ。まき代さんはそうなることがわかってるから黙っていたと。

小佐野 そういうことですね。あのときは全米PPVの大会の出場も予定されていて、WCWに正式に招待された初めての日本人選手だったから。全日本との絡みがなければ、WCWは天龍さんが欲しかったんです。そんな重要な仕事があるのに日本に戻しちゃいけないと、まき代さんは思ったはずなんですよね。

――全日本離脱の決断は天龍さんに任せたんですよね?

小佐野 そうですね。「家ではとにかくプロレスの話を全然しないから何もわからない」と言ってました。SWSがダメになってWARが旗揚げしたんだけど、経理ができる人間がいない。まき代さんは経理ができるので、経理担当ということでWARに入っていく。弟の武井正智さんも初めは本部長というかたちでWARに入って、のちに社長になるんだけど、その頃の天龍さんは家族に対してプロレスの話をまるでしないから。まき代さんや武井さんに「大将は何を考えているのか」とよく聞かれたもんです。全日本をやめる前には、天龍さんがポロッと漏らした「ジャンボに負けたらやめるよ」という言葉を私が表紙にして、結果的にスクープになったんだけど。メガネスーパーから話があって迷っていたことは、もちろんまき代さんも知ってましたけど、『ゴング』の表紙を見て「何これ?やめるなんて言っちゃったの?」って驚くという。

――家族にすら何が起きているかを教えないのは天龍さん独特なんですかね。当時のプロレスラーの基本姿勢だった感じもありますけど。

小佐野 人によりけりだと思うけど、おおかた天龍さんみたいなスタンスだったと思う。鶴田さんなんかは、普通に奥さんにしゃべってたような気がするけど。天龍さんが家に帰ってきて、ご飯を食ってて、ごほっと咳したら、額から血が吹き出てきて家族がビックリしたとか(笑)。タイガー・ジェット・シンのサーベルでやられた傷みたいだけど。

――笑いごとじゃないですけど、やっぱり特殊な職業ですね(笑)。

小佐野 でも経理として関わるとなると、知らないじゃまずいよね。実際その後の天龍さんはファミリービジネスになっていくわけだから。天龍さんがいろいろとご家族にしゃべるようになったのは、たぶんフリーになってからじゃないですかね。WARも終わって、新日本に外敵軍団として上がった2004年あたりぐらいかな。

――変な話ですけども、プロレスの情報公開のあり方が緩やかになってきている時期とかぶりますね。

小佐野 天龍さんが全日本に復帰したのは2000年。その前にFMWで大ハヤブサになったでしょ。当時FMWのプロデューサーだった冬木(弘道)さんに頼まれて。

――冬木さんとはWARの契約の件で裁判中だったんですよね。それなのにお願いされたから天龍さんの男気で引き受けるという。

小佐野 あれ、私が冬木さんに頼まれて天龍さんに連絡したんだけど。この件も天龍さん、家族にしゃべってなかったから。娘の紋奈代表に聞いたら、家に帰ったらハヤブサのマスクがあって、本人がシャワー浴びてて「何これ?」と。家族に何も言わず大ハヤブサに変身して家に帰ってきたと(笑)。そんなこともあったから、天龍さんが全日本に戻るときも、元子さんから頼まれて天龍さんに話を持っていったんだけれども「嶋田家の今後にとって非常に大事な話になると思うので、まき代さんもぜひ一緒にお願いします」と。天龍さんひとりで決められちゃうと私としても責任を感じちゃいますよね。そのあとどうなるかわからないから。

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