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日本とアメリカの女子プロレスを変えたブル中野■斎藤文彦INTERVIEWS


80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマは日本とアメリカの女子プロレスを変えたブル中野です!

キラー・カーン伝説を語り継ぐ■斎藤文彦INTERVIEWS

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――今回のテーマはWWEのホール・オブ・フェイム入りをはたしたブル中野さんのアメリカ時代の功績を語ってもらいます。

フミ 日本人女子レスラー初のWWE殿堂入りで、日本人レスラーとしては5人目です。アントニオ猪木さん、藤波辰爾さん、獣神サンダー・ライガー、グレート・ムタ(武藤敬司)の4人がこれまで殿堂入り。ここに並ぶだけでもすごいことですよね。

――納得の人選です! ジャイアント馬場さんもタイミングを見て、なんとか殿堂入りしてほしいなって思ってるんですけどね。

フミ 馬場元子さんがご存命のときにオファーはあったようなのですが、おそらくその当時の担当者だったジョニー・エースが順番を間違えたと思うんですね。猪木さんが先で馬場さんが後だったから、元子さんが断ったというお話を聞いたことがあります。そういう物事の順番ってすごく大切ですよね。グレート・カブキさんのようにご本人が「オレはいいよ」と断っちゃったというケースもありましたが。

――「立ちションベンができなくなるから」と国民栄誉賞を断った福本豊みたいですね(笑)。

フミ おそらく10年後くらいにはASUKA選手やイヨ・スカイ選手がホール・オブ・フェイムに入る可能性は充分にありますが、やっぱり日本人女子レスラーの第1号はブル中野さんなんだと思う。レッスルマニアウィーク中に殿堂入りのセレモニーが行われますが、見届けるためにボクも急遽フィラデルフィアへ行きます。

――おお、フミさんのレッスルマニア現地開催は久しぶりですよね。

フミ そうなんです。コロナ禍前の2019年大会が最後だったので5年ぶりになっちゃいます。2020年からコロナ禍で、WWEのTVショーもネット上の数百人のバーチャル観客の画像が画面に敷きつめられたサンダードーム方式が導入され、レッスルマニアもそのサンダードーム方式の無観客で開催された年もありました。

――サンダードーム方式、懐かしいですね(笑)。

フミ あのサンダードーム方式は時代を象徴したひとつのかたちではあったんだけれど、段階的にお客さんを入れるようになって、現在はかつての興行スタイル、中継スタイルに完全に戻りました。欠席が続くとアメリカが遠くなってしまいますから、ボクもひさしぶりに現地に行かなくちゃいけないかなと。金曜日のスマックダウンとホール・オブ・フェイム、土曜日と日曜日のレッスルマニア2DAYS。駆け足ではありますが、今回は選手、関係者が泊まるホテルも宿泊するので、いろいろ懐かしい人たちと再会できると思います。

――レッスルマニアウィークというと、開催地付近でプロレスイベントがあることが名物になってますね。

フミ そうですね。同じフィラデルフィアでレッスルコン(世界最大のプロレスファンイベント)もありますし、フィラデルフィアにはバトルグラウンド・チャンピオンシップ・レスリングというインディー団体があって、ECWのリユニオンみたいな大会もやるらしいです。場所は旧ECWアリーナ。名称は変わったんですが建物は残っていて、いまでもプロレスの興行がおこなわれているんです。フィラデルフィアはもともとECWの本拠地でしたからね。スターダムの試合もフィラデルフィアであるし、街全体が1週間ずっとプロレスのお祭りをやってるような状況ですね。

――帰国後にお話を聞かせてください。ブル中野さんの日本での活躍は皆さんご存知ですが、アメリカ時代をメインテーマでお聞きしたいと思ってます。

フミ みなさんのご記憶にあるかどうかわかりませんが、ブルさんの最初のアメリカ遠征は1986年、18歳のときなんです。やっぱりWWE(当時WWF)で、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン定期戦。極悪同盟のダンプ松本さんとのタッグで。ライオネス飛鳥と長与千種のクラッシュギャルズも同時遠征で、日本人女子4選手がガーデンのリングに上がったということがありました。この試合は当時、全女を中継していたフジテレビのテレビ撮りの企画だったのですが、現地でめちゃくちゃウケたのはクラッシュギャルズよりもむしろダンプ松本・ブル中野組だった。それは日本におけるクラッシュギャルズ現象や、ボーイッシュな日本人女子レスラーの魅力がいまひとつアメリカのお客さんに伝わりきってなかったところがあった。逆にダンプ松本とブル中野の風貌、コスチュームとペイント、そしてファイトスタイル。ロード・ウォリアーズの女子版みたいな感じで、アメリカのオーディエンスにはそこがすごくウケたのでしょう。

――アメリカにロード・ウォリアーズ系の女子ヒールはいなかったんですね。

フミ レッスルマニアはこの1年前の85年から始まっているんですが、当時のWWEの女子部門といえばウェンディ・リヒターや、当時すでに60代ですが現役で頑張り続けていたファビラス・ムーラとそのムーラのお弟子さんたち。女子の試合が1大会に1試合だけあって、男子の試合の中に1試合だけ女子の試合がサンドイッチされていた。いわばトイレタイムになりがちなポジションだったんです。そんなアメリカの女子プロレス観を変えたのはジャンピング・ボム・エンジェルスことJB・エンジェルス(立野記代&山崎五紀)のWWE長期遠征からでした。JB・エンジェルスの試合によって女子プロレスのおもしろさに目覚めたっていうアメリカのファンはすごく多いんです。

――それくらいJB・エンジェルスはセンセーショナルな存在だったし、アメリカの女子プロは遅れていたんですね。

フミ 遅れていたというよりは、アメリカでは女子部門の試合がメインイベントとして成立しにくいという現実がありました。アメリカにおけるブル中野さんの活躍は、WWEに本格参戦した94年以降になります。日本の全女のリングでメドゥーサとして活躍していたアランドラ・ブレイズがWWEでチャンピオンになって、その対戦相手としてブルさんが選ばれたんです。当時のWWEはブレット・ハート、ディーゼルというリングネームだったケビン・ナッシュ、レーザー・ラモン時代のスコット・ホール、ショー・マイケルズらがトップグループで、ハルク・ホーガン以降のWWEがようやくその陣容を整えていた時代。アランドラ・ブレイズもそのニュージェネレーショングループの1人だった。メドゥーサがそこまで評価された理由は「彼女は日本ではスーパースターだったんでしょ? 日本のスタイルを身につけた最初のアメリカ人レスラーなんでしょ?」という共通の認識あった。日本からアメリカに逆輸入されたレスラーというイメージがあったわけです。

――日本育ちが“幻想”になったわけですね。

フミ メドゥーサは長期滞在型レスラーとして日本に2年間住んで全女で試合をして、それからアメリカに帰ってWCWを経由してWWEと契約。アランドラ・ブレイズという新リングネームでWWEのチャンピオンになった。その対戦相手なら、やっぱり日本から呼ばなくちゃいけないということだったんです。

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