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スーパースター・ビリー・グラハムのサイケデリックな世界■斎藤文彦INTERVIEWS

80年代からコラムやインタビューなどを通して、アメリカのプロレスの風景を伝えてきてくれたフミ・サイトーことコラムニスト斎藤文彦氏の連載「斎藤文彦INTERVIEWS」。マット界が誇るスーパースターや名勝負、事件の背景を探ることで、プロレスの見方を深めていきます! 今回のテーマはスーパースター・ビリー・グラハムのサイケデリックな世界です!

“最後のエスニック系ヒール”アイアン・シーク」■斎藤文彦INTERVIEWS

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――今回は先日お亡くなりになりましたスーパースター・ビリー・グラハムを語っていただきます。プロレスの歴史を変えたという評価もされるスーパースター・ビリー・グラハムですが、彼の存在を詳しく知らない世代へ向けて面白い話が聞けるんじゃないかと思います。

フミ よろしくお願いします。ビリー・グラハムはあまりにも日本での評価が低いというか、その歴史的な立ち位置とステータスが正しく伝わっていないことに憤りをすごく感じるんです。

――フミさんが憤るほど!(笑)。

フミ ボクは年代的にスーパースター・ビリー・グラハム直撃世代なんですけど、日本では評価が低いというよりは、あまりにも不当に評価を受けているといったほうが正しいかもしれません。グラハムがいなかったら、そもそもハルク・ホーガンは存在していません。ビリー・グラハムの影響を受け、グラハムのスタイル(ビジュアル)をコピーしたレスラーの名前を挙げたらきりがありませんが、まずアメリカで一般的な知名度がひじょうに高い元ミネソタ州知事、俳優、現在は政治評論家のジェシー・ベンチュラ、ロード・ウォリアーズのマネージャーだったポール・エラリングも現役時代はビリー・グラハムの完全コピーだった。馬場さん時代の全日本プロレスに何度か来日したオースチン・アイドル、リップ・ロジャースもグラハムのオマージュ。ほかにも何人もいますね。

――ビリー・グラハムのフォロワーがたくさんいるわけですね。

フミ プロレスラーになる前のハルク・ホーガンがフロリダでラッカスというバンドのベースを弾いていた時代、70年代のまんなかあたりですね、ビリー・グラハムの熱狂的なファンだったんです。ビリー・グラハムがNWAフロリダのリングに上がっていたときです。毎週水曜日にタンパのアリーナで試合があって、ホーガンはシーズンチケットを買って毎週必ずリングサイドの3列目の同じ場所に座ってビリー・グラハムの試合を観ていた。ローカルの常連客はそのホーガンの姿を記憶している。プロレスラーになる前のジェシー・ベンチュラは、AWAのミネアポリス・オーデトリアム定期戦でビリー・グラハムと同じタイダイ(絞り染め)のTシャツを着て「俺はビリー・グラハムの弟だ」ってホラを吹いて歩きまわっていた。これも年配の常連ファンがいまに記憶にとどめているローカル伝説なのです。

――みんな熱狂してたんですね(笑)。

フミ あのダスティ・ローデスも“アメリカンドリーム”のニックネームを名乗る前、ビリー・グラハムに「絞り染めのTシャツ、カッコいいからオレも着ていい?」と承諾を求めたというエピソードもあります。無断でパクるのはよくないですから。タイダイなグラハムの専売特許だったわけだし。

――なぜビリー・グラハムにそこまで人気があったんですか?

フミ スーパースター・ビリー・グラハム以前にもボディビルダー上がりの筋肉マン系レスラーはいることはいたんだけど、ド派手なロングタイツ、タイダイのロングタイツ、ヒザ下までの長いリングブーツ、サイケデリックな衣装を身に着け、ブロンドの髪を長く伸ばし、リング上で筋肉ポーズのルーティンを披露して観客との対話を成立させたレスラーは存在しなかった。ビリー・グラハムの場合は60年代後半から70年代のポップカルチャー、つまりサイケデリックだったり、アシッドだったり、ロック音楽でいえばジミー・ヘンドリックスやニール・ヤング的な世界観だったり、ウッドストックのフリー・スピリット(自由な魂)だったり、そういった時代の空気をプロレスのリングに持ち込んだ初めての、文字どおりスーポースターだった。

――時代の合わせ鏡的な存在だったんですね。

フミ あまりにも先端を行き過ぎたプロレスラーだったことで、そのカッコよさに感化されちゃった人がたくさんいたということですね。繰り返しますがスーパースター・ビリー・グラハムがいなかったら、ハルク・ホーガンもジェシー・ベンチュラもレスラーになってないんです。ジェシー・ベンチュラもまた日本での評価は高くありませんが、アメリカではビッグな存在。現役を引退後、WWEとWCWではカラーコメンテーターでしたし、映画俳優としてはアーノルド・シュワルツェネッガーの映画に何本も出ています。そして、ラジオのトーク番組で爆発的な人気を集め、環境派の言論人として政界進出に成功した。

――ジェシー・ベンチュラは『プレデター』にも出ていますね。

フミ ラジオのデスクジョッキーで人気者になったことが大きくて、最終的にはミネソタ州知事にまでなっちゃいました。そのベンチュラもそもそもはスーパースター・ビリー・グラハムに憧れてプロレスラーを志したわけです。

――グラハムがいなかったら、そのオマージュの筋肉マン系レスラーたちもも華々しくデビューすることはなかったわけですね。

フミ いまではあたりまえのヒザの下まで長いリングブーツを履いたのもビリー・グラハムが初めてです。たとえば、ザ・ロックことドウェイン・ジョンソンもヒザのすぐ下あたりまでのものすごい長いリングシューズを履いていたけれど、それもビリー・グラハムの流れなんです。もともとビリー・グラハムはプロレスラーになる以前からボディビルダーで、パワーリフティングでは非公式ながらベンチプレスの世界記録を持っていました。ベニスビーチの有名な『ゴールド・ジム』でアーノルド・シュワルツネッガーと一緒に撮った写真が流布されるような存在だったんです。

――ボディビルのほうでも名の知れた存在だったと。

フミ フットボールでもNFLを目指していたんですが、彼の場合はCFL、カナディアン・フットボール・リーグで何シーズンかプレーした。そのオフシーズンにカルガリーのスチュー・ハートさんからプロレスを学んだんです。

――名伯楽のスチュー・ハートに。

フミ じつはハート家の流れも汲んでいるんです。当時すでに50代だったスチュー・ハートさんが26歳だったビリー・グラハムを“ダンジョン”のマットの上でぎゅうぎゅう絞めたってことですね。

――ハート家の地下道場“ダンジョン”で。

フミ ビリー・グラハムは1970年1月、カルガリーで本名のウェイン・コールマンでデビュー戦をすませたあと、ホームタウンのアリゾナまで帰ってきてプロレスの仕事を探すんだけど、なかなかうまくいかなかった。日本のように団体の道場で練習してデビューできるシステムはなくて、当時のアメリカではどこかで自分でコネクションを作ってプロレスビジネスの中に足を踏み入れるしかなかった。そんなとき、グラハムはアリゾナのナイトクラブでドクター・ジェリー・グラハムと出会った。ドクター・ジェリー・グラハムは60年代に一世を風靡したグラハム三兄弟の長男で、次男がエディ・グラハム、三男がクレイジー・ルーク・グラハム。グラハム三兄弟といっても、典型的なレスリング・ブラザースで血のつながりはないですけど。ビンス・マクマホンが少年時代に一番憧れたレスラーがドクター・ジェリー・グラハムだった。なぜドクターかというと、リング上で相手に催眠術をかけちゃうギミックを売りものにしていたんです。

――催眠術レスラー!!

フミ そのドクター・ジェリー・グラハムは年齢もあってセミリタイア状態だったんですけど、若くてボディビルダー・タイプのビリー・グラハムの話を聞いて「だったら、俺の弟になりなよ」と誘った。メンバーチェンジを繰り返したディープ・パープルじゃないけど、第2期グラハム兄弟がここでスタートするわけです。

――ビジネス・ブラザーズというのは、血は繋がってないけど姉妹が売りの叶姉妹みたいなものなんですよね(笑)。

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