死の淵からのMMA!! 野瀬翔平インタビュー
――RIZIN佐賀大会での瀧澤謙太戦、めちゃめちゃ強かったです!
野瀬 ありがとうございます! もう勝つなら圧倒して勝とうと思ってたんで、そのとおりの試合になってホッとしてますね。
――KO勝ちだったこともプラスして反響も大きいですよね。
野瀬 凄く大きかったです。初めて観てもらえた方も多かったので、ボクのことを知ってもらえてうれしいというか。それに、今回会場が佐賀アリーナだったので、友達や家族だったり、あとは会員さんも総勢100人弱来てくれたんですよ。
――100人も! 野瀬選手は福岡出身で、佐賀までは電車で1時間程度とアクセスもよかったですもんね。それにしても、印象的だったのはあのビジ打ちの連打です。あれだけのヒジは打ち続けるのクタクタだったんじゃないですか?
野瀬 いやあー、もう最後は「止めてくれー!」と思ったり(笑)。でも、打ち続けないと、もし相手が復活して立ち直ってきたらボクもかなり体力を使っちゃってたんでね。サブレフェリーの声も聞きながら止まるタイミングを確認してました。
――あのシーンは「もっと早く止めてもよかったんじゃないか」という声もありますが、瀧澤選手の意識が飛んでるような感じはあったんですか?
野瀬 いや、意識は飛んでないですけど、力が抜けてきてたのは感じました。このままやっていれば「もう決まるだろう」という感じでしたね。
――野瀬選手は試合決定率が8割以上ということで、またもやその勝率が上がったかたちになりましたね。
野瀬 ボクはいままで判定を狙って試合をしたことがなくて。どっかでフィニッシュするタイミングを狙っているので、それが結果に出ているのかなとは思います。もちろん今回も一本は狙っていたんですけど、そこは瀧澤選手がかなり対策してきてて首も腕も取れなかったので、まあパウンドで削ろうと思ってたらいい感じでヒジが入ったから、そのまま削っちゃえ!という感じでした。
――そもそも、試合の序盤では瀧澤選手もテイクダウンに対処してましたが、徐々にそれができなくなったというのは、やっぱり野瀬選手のテクニックが上回ったということなんでしょうか?
野瀬 1ラウンドの後半にバックを奪えて、それでパウンドやチョークのプレッシャーで体力的に削れてきてたのかな、と。2ラウンド目に入ったときにそこは凄く感じたので。かなり1ラウンドのダメージもあったと思います。
――テイクダウンもそこまでハードルではなかったんですかね。
野瀬 もう、組めれば寝技に引きずり込めるなというのは最初に組んだ段階で思ったので。そこは自信がありましたね。
――逆に、瀧澤選手の打撃は怖くなかったですか?
野瀬 正直、お腹への攻撃は1回も効いてはなかったです。ただ、2ラウンド目にボクが不容易にストレートで入っていったときに、カウンターの右ストレートが入ったのが凄くタイミングがうまくて。あれは見返しても危なかったなと思います。あとはヒザが危険でしたね。2ラウンド目のヒザは、前腕に当たってディフェンスできたのでよかったですけど、もし入ってたら倒れるぐらいの威力でした。
――危ない場面もあったんですね。インターバルを含め、試合中はセコンドの弘中(邦佳)さんからどんなアドバイスがありました?
野瀬 1ラウンド終わったときに「これをもう1回やるぞ」と。組みついて組みついて、それを3ラウンドやり続けるぐらいの気持ちでやれという感じでした。どっかでフィニッシュできればすればいいしぐらいの感じで。
――試合後の弘中さんも凄くうれしそうでしたよね。
野瀬 ああ、勝ったらいつも喜んでくれますね。今回は勝てて本当に大きかったです。
――よくよく調べると、弘中さんはバックボーンが柔道で、アマチュア修斗で優勝してという、おふたりは凄くキャリアが似てますよね。
野瀬 ああ、そうですかね? ボクは最初「プロになりたい」と言ったら、もう「アマ修に出ろ」「全日本で優勝しろ」という感じだったので。なので、言われたとおりにアマ修斗の全日本で優勝して、そのままプロ修斗でデビューしてって感じですね。
――最初の柔道だけはお父さんの影響だったという。これは何歳から始められたんですか?
野瀬 じつは始めたときの記憶はないんですよ。いつのまにかやってたというか(笑)。たぶん3歳とかじゃないですかね?
――その当時はもう柔道着は着て練習していたんですか?
野瀬 柔道着を着てる写真がありますよ。だからボクも「この頃からやってたんだ」みたいな。
――その後、中学、高校と進まれて当時のどんな成績だったんですか?
野瀬 うーん、中学は福岡県で2番とかですかねえ。やっぱり「1番にならないと」みたいな感じはあったので悔しかったというか。で、高校はずっと地区で何番とかだったんですけど、やっと自分の代になって「ここからだ」というときにケガをしてしまって……。
――そのケガのエピソードは本当に壮絶ですよね……。柔道の試合で首の骨を折るという大事故で。ちなみに、柔道時代は何キロ級で?
野瀬 当時はいっぱい食べて「増やせ! 増やせ!」という感じだったので、73キロ級とかですか。でも実際は68キロぐらいしかなかったんですよ。ただ、団体戦に出るにはデカくないとということで。73キロ級の下が66キロ級なんですけど「減量なんかさせないぞ!」という雰囲気でしたね(苦笑)。
――それっていま考えるとめっちゃ不利ですよね。
野瀬 まあ、団体戦は無差別なのでデカいほうが有利なので。でも、なかなかデカくはなれませんでした。
――先ほどのケガの話ですが、それは高校何年生のときだったんですか?
野瀬 高校2年です。やっと自分の代に代替わりしたばかりで、団体戦のメンバー5人にも選ばれて。ちょうどそのときです。無差別なので100キロ級の相手と68キロぐらいのボクで試合をして。抱え上げられたときにバランス崩して頭から落ちていくという感じでした。
――相手は100キロ級の選手だったんですか……。当時の記事を読むと本当にゾッとするんですが、ケガをしたあとの記憶はあったんですか?
野瀬 意識はありました。ただ、首から下が動かない状態で。動かないというか、首から下が“ない”感覚というか。“首だけ人間”になったような感じでした。わかります?
――じゃあ、手を動かそうとしても感覚がないような?
野瀬 あとあと映像で見たら手首が動いてたりするんですけど、ボクが動かそうとしているわけではなく、トカゲの尻尾じゃないけど勝手に動いている感じで。ボクが動かそうと思って動かしているわけではなく、神経が反射で動いているような感じだと思います。
――当時、最初に行った病院では手術できないから、ドクターヘリで違う病院に向かったという話も出てました。そのことも覚えてます?
野瀬 覚えてます。ヘリに乗ったのも覚えてるし、麻酔を打たれるまで意識はあったので。だから、逆に手術する前は感覚がないので痛くはないんですよ。でも、手術をやって麻酔から覚めるととてつもない痛みで。もう、神経をつなげたので首から下が全部が激痛という感じでしたね。
――……。
野瀬 そして、手術後は全然時間が過ぎないし、自分で排泄もできないし。もう「殺してくれ!!」って感じで……。で、本当に時間が経つのが遅いんですよ。痛み止めのためにモルヒネを打ってもらうんですけど、やりすぎるとモルヒネ中毒になっちゃうから数時間に1回しか打てなくて。その時間が待ち遠しくて待ち遠しくて。それを打たないと痛すぎて寝れないし。だから、本当に待つ時間が長かったですよね。
――その状態ってどのくらい続いたんですか?
野瀬 泣きわめくというか、そういう苦しい状態が続いたのは1週間くらいです。その後も痛いは痛いんですけど、ちょっとずつリハビリを始めていくという感じでしたね。というか、ドクターからは「もう歩けないよ」と言われてたので、まず車椅子に乗る練習を始めて。ただ、その車椅子の準備を始めようとしていたときにちょっと1回試してみたいなと思って、「歩く練習をしてみたいんですけど」とお願いして。そしたら、理学療法士の方も「じゃあ、やってみようか」と対応してくれて、それで歩けるようにもなったという感じでした。
――ドクターとしては、それは予想外だったんですか?
野瀬 ボクがそのときに思いついて言わなければ、足の筋肉も弱っていって、ずっと車椅子生活だったと思いますね。
――凄い奇跡ですね。柔道で鍛え上げたもともとの体力があったからこそという。
野瀬 柔道時代はブリッジとかで首を凄く鍛えてましたし。その筋肉の圧迫のおかげで、骨がずれる量が少なかったとは聞きました。
――その後、どのくらいで退院されたんですか?
野瀬 退院自体は1カ月で退院して。そっからずっとリハビリで、腕立ても1回もできない状態からちょっとずつという感じでしたね。
――それでよく一般人どころか、MMAファイターにまで身体が仕上がりましたね!
野瀬 でも、ずっと首を固定するために数カ月はカラーをつけてて。普通に生活できるようになったというのは……どうだろう? 手のしびれはずっとあって、ちょっとずつ消えてはいくんですけど、ある日突然パッと消えるもんじゃなく。いつ戻ったのかと言われると、たぶん何年も戻ってないと思いますね。いまでも朝とか寒いときは指先がしびれるんで。完璧にゼロというのは、まだないかもしれないです。
――でも、そこからMMAをやりたいと思ったんですもんね。
◎師匠・弘中邦佳との出会い
◎地方でMMAをやること
◎MMAのためのキック出場
◎2年連続ROAD TO UFC出場、今年は?……続きはこの後へ!
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