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小三治師匠の思い出

私、落語が好きです。ライブのMCが苦手で、初めは喋りの勉強のつもりで聴いてみたのですが、聴き始めたら面白くて、こんなにゲラゲラ笑ってしまうものとは知りませんでした。

入り口は志ん朝さん。一度志ん朝を聴いちゃうと他の噺家は聴けないなんて言う方もいらっしゃいますね。自分も最初はそう思ってました。でも、興味感心がわくと色々な噺家さんを探ってみたくなるもので、手始めにお父さんの志ん生、桂文楽、三遊亭圓生といった伝説的名人から、挙句の果てには最近の若手の噺家さんまで聴き漁るようになりました。中でも特に聴いていたのが先日お亡くなりになった10代目柳家小三治さんです。

最初に見たのは動画で「出来心」という話。僕が見たテイクでは、二人の登場人物の滑稽な会話の途中で、珍しくセリフを間違えてしまいます。そこでクスッと苦笑いしてすかさず「見ろ、、おめえがおかしなことばかり言うもんだから、俺までおかしくなっちまったじゃねえか」と即興でセリフを挟んで物語を繋げてしまったばかりか、ミスを爆笑に変えてしまいます。本人からすれば不本意なのでしょうが、こういう機転の利かせ方は一人ですべてを演出しきる落語ならではのように思われて、感動した記憶があります。

決定的にハマったのは「小言念仏」でした。念仏を唱えにきたのに、肝心の念仏を唱えてる最中に「仏壇が埃まみれだ」とか「飯が焦げ臭えぞ!」と家の者への小言を挟む、罰当たりなんだかよくわからない和尚の話なのですが、小三治師匠の素朴でぶっきらぼうな喋り口のせいなのか、とにかく可笑しくて声を出して笑ってしまいました。

小三治師匠の演じる一般庶民って、「こういう人いるよね〜」って心から思っちゃうリアルさや親近感があるんですよね。庶民の暮らしの悲哀なんかを表現させたら小三治師匠の右に出る人はいません。かと思えば「初天神」の金坊のような初々しいいたずらな子供にまですっかりなりきってしまう(小三治師匠の金坊って本当に悪意がなくて可愛いのです。)

幸運にも2回ほど高座を生で見ることができたのですが、直に見たときにはまたさらにその凄みを味わうことになりました。くるっと体の向きを変えるたびに、本当に違う人になったように見えるんです。もちろん実際はそんなことはなくて、我々の想像力がそうさせているのですが、そういった想像力をかきたてる小三治師匠の微妙な仕草や表情の変化。その芸の深さは歴の浅い自分でも感じることができました。そして何より、派手なくすぐりなどないのになぜか自然と笑ってしまう!

ドキュメンタリーなどで切り取られる小三治師匠は、やはり求道者、大師匠としての側面が強いと思うのですが、気難しくて、厳しくて、ちょっと怖い、、そんなイメージが少し変わった出来事がありました。

今年のことです。

友人とバスに乗っていた時に、帽子を深々とかぶった細身のご老人がバスに乗って来られました。優先席に座っていた友人がすぐさま席を譲ると、そのご老人はやけに通る声でゆっくりと「どうもありがとう」と言って腰掛けました。決して寒い時期でもないのに、首には厚手のストールを巻いておられました。

とある駅前まで来たところでご老人はよっこらせと立ち上がり、もう一度あのよく通る声で「どうもありがとう」と言って降りて行きました。その声と立ち姿にピンと来てしまったのは僕で、あまりのことに居ても立っても居られず「降りよう!」と友人も引き連れて、すでに閉まっていた降車扉を運転手さんに開けてもらい、バスを飛び降りてご老人を追いかけました。

かなりお歳を召しておられる様子で歩くのも一苦労といった風に見えましたが、ピンと通った背筋に見れば見るほど垢抜けたファッション、明らかにただ者ではありませんでした。当然このご時世、マスクもしておられたので顔はわからなかったのですが、何よりそこが”高田馬場”でしたから、確信に変わったのです。かといって確かめる勇気もなく、ただその背中をじっと眺めるだけで膠着状態が続きました。

声をかけたのはなんと友人でした。友人は僕の勧めがきっかけで落語にハマったばかりで、特に“その噺家”の噺をよく聴いていたのです。

「あのすいません、、小三治さんですよね?」

本当に血の気が引きました。
(何やってんだバカヤロー!!!!)と心の中で叫びました。思った通りそのご老人は、高田馬場の師匠こと、人間国宝の柳家小三治その人だったのです。

きっとプライベートの時間。こんなふうに不躾に声がけなどしたら、絶対怒られる思いました。すると小三治師匠、

「ああ、、そうですけど。」

みたいな感じだったかどうか、、あまり感激して覚えてないんですが。

「実はさっき、バスで席を、、」と怖い者知らずの友人が続けました。

「え?あぁ〜、、はっは、、、どうも。で、えぇ、なに、あんたたちここまでつけて来たのかい?」

「ごめんなさい、、!そんなつもりはなかったのですが、、大ファンでつい、、!」

あんなに地面すれすれまで頭を下げたの、初めてかもしれません。

「あぁ、、そう。どうも、ありがとう。今度ね、えーと、〇〇だったかな、そこでね、こういうのがあるからね、よかったら、見てくださいね。」

と、小三治師匠はこんな非常識極まりない2人に対しても、大人の対応をしてくださいました、、。そして何より喋りのイントネーションが、いつも落語で聴いてる喋り方のまんま、、!

小三治師匠が立ち去った後も、しばらく放心状態。夢を見ていたようでした。僕一人だったら声をかけることもなかったので、小三治師匠には悪いですが友人には感謝しないといけませんね。
ドキュメンタリーなどで見た小三治師匠は、気難しそうで弟子にも厳しいおっかない人だったのですが、そこからは想像もつかないサービス精神にびっくりしました。こんな阿呆な三十過ぎの僕にも、「ありがとう」と、、。

それにしても落語界の大看板たる名人小三治、てっきり運転手なんかがいて、、と思ってましたが、付き人さえおらずあんなにしれっと公共交通機関を使って移動しているとは驚きました。たぶん、頚椎を手術されてから、身体のリハビリという意味もあったのかもしれません(とある高座のまくらで、京都の先生から手術後のリハビリに散歩するのがいいと言われたとおっしゃってたので。)あと勝手な想像ですが、落語家である以上、一般の人々と同じ暮らしを身に染みさせなくては、落語に出てくる下々の町人たちの心情を演じることはできない、そんなことも考えていたんじゃないかなとも思うのです。

「落語家が贅沢なんかしちゃいけない。」なんてことが暗黙の了解だった時代があったようですが、多趣味で知られる小三治師匠も、そんな昔ながらの矜持に自らを従わせていたのかもしれません。

晩年は病と闘いながら、満身創痍の身体でも最後まで落語家として、探究の姿勢を貫いたと言われる小三治師匠。実はお会いした時も、手には本屋の袋を持っていらして。おそらく師匠の人生の中でも、最後に買った数冊くらいのうちに入るんじゃないでしょうか。どんな本だったんでしょうね。80歳になっても何かを吸収しようとしていたんでしょうか。そう思うと、自分のことじゃないのになんだか悔しさが募ります。あれから1年も経たないうちに旅立たれるとは思わなかった。当たり前のようにいつかもう一度高座を見れるつもりでいました。必ず次があるなんて、そんなこと誰にも言えないんですよね。師匠、あの本最後まで読めたかなぁ。


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