死について俺が思ってるマジなこと
久しぶりに重めの話を書く。
誰かが亡くなるといつも「1日1日を大事に過ごす」もそうなんだけど、それは毎日普通に過ごしてると結局忘れちゃうから「近くにいる人に、優しく寄り添え」と言い聞かせる。
「寄り添おう」と思うのは、ひとりひとりに優しさを持って一緒に過ごしたその先で、みんなに「ありがとう。一緒に過ごせてよかったよ。」ってひと言をもらえたら自分は素直に喜べるだろうと思ってるから。
そこには確かな救いがあるし、そこに生きる意味はあるんだろぅなぁとさえ思ってる。
死が怖かった今までの自分は、最近ようやく「死ぬことそのものは、大したことがないんだ」と思うようになってきた。
電車を待っている時に1歩足を踏み外した。数歩先を歩いてた人が悪意の爆発に巻き込まれた。立っていた場所が数メートル違った。座席のベルトを閉めなかったから助からなかった。もうちょっと発見が早ければ助かっていた。ちょっと時間を割いて話を聞いてあげていたら、あの人は自ら命を絶たなかったかもしれない。
死ぬなんて「1歩」とか「数秒」とか「わずかな時間」とか、そんなちょっとの差で決まっちゃうんだわな。
「大したことがない」といってるけど、人の死を「仕方がない」「寿命だよ」なんて言葉で片付けられるほどできた人間じゃないから、声とか笑った顔を2度と見れないのは憤るほど悔しいし、この世からいなくなることが悲しいのは本当にそうで。
マジでやりきれない気持ちになるんだけど、でもそれは、こっちで弾んでいたボールがひょんなことであっち側に転げ落ちてしまっただけで、それ自体は大したことはなくて、すべての人のボールは必ずあっちに転がるから、安心して、あっちでも美しいものをどうか安らかに眺めていてほしい。
そんで、俺がそっちに行った時はまた一緒に眺められたらと思う。
というかんじで、顔見知りの人が立て続けにこの世からいなくなって思ったことを殴り書いた。
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