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"Chack and The Girl"と自意識とビジュアル系

 “不器用だけど活発で、自分が女性であることは自覚しはいるけど、本当の性自認はあいまい。女の子と遊ぶよりも、男の子と遊ぶのが好きで。でも男の子の仲間には入れてもらえなくて。女の子との遊びもピンとこなくて。結局一人で遊んでることが多くて。懐いてるんだか懐いてないんだかよくわからない、でも愛らしい猫もいるし、そんなに辛くもなくいし結構楽しい。そしてこの物語は猫のチャックと少女が過ごした日々の回想であり、実は女の子は今はもうすでに大人になっている“ 
 これが”Chack and the Girl”のキャラクターの基本コンセプトだ。特に幼い子供に偏愛があって描いているわけではないので。誤解のないよう。

 私は齋藤家の初孫だった。男の子だったこともあり子供時代は特に家族に溺愛されていたと思う。何をしても褒めらてれたようだし、クラスのみんなの前でヘンテコな踊りを踊るような陽気な子だった。甘やかされて育って自己肯定感はバッチリだった。
 しかし小学5年生〜中学1年生くらいにかけてだろうか。それまで子供だった私も第2次成長期を迎え少しづつ男性になっていく。無論、精通もあった。リビドーがより明確にむくむくと起き上がってきた。それと同時に自意識が目覚めていった。異性を意識するようになり、急に髪型が気になってきた。癖毛が気になってきた。毛深い父に似て、周りの友人よりも足のすね毛がどんどん濃くなっていく。自意識が高まるほど自分の胴長短足で頭が大きい体型が醜く思えた。体操着の短パン姿の自分は、運動神経の鈍さも相まり公開処刑さながらのように感じていた。そうして行き場がなく対処の仕方もわからない、リビドーと自意識に振り回されると共に自分の体と心の変化に付いていけずにいた。異性は意識するくせにどんどん男になっていく自分が嫌になっていった。

 中学生に入ってからあるとき、友人にXの「Jelousy」をダビングしたカセットテープを借りて聴いた。その激しく美しい音に心惹かれ夢中になって聴いた。そこから当時のXのインディーズレーベルに所属していたLUNASEAを知り、今までに聴いたことない音像に衝撃を受けて虜になった。そこからインディーズシーンにどんどんはまっていった。中でも黒夢の「中絶」そして「生きていた中絶児」を聴いた時、謎のコード進行、激しいリズムの衝撃とそれを理解したいという好奇心でどんどん夢中になっていった。黒夢の清春さんをはじめ当時の彼らは化粧をしてその身を着飾り中性的でありながら、破壊的な音で常に死を想起させていた。当時、自分の男性的な姿に対する劣等感とリビドーからくる破壊衝動を抱えた私は、彼らの音楽と姿とパフォーマンスは確かに救済であった。

 中学生、高校生、大学生と私はアンコントロールなリビドーと自意識に振り回され、どんどん”拗らせ”を加速させていった。あるときから街中で誰かの笑い声が聞こえるとすべて自分への嘲笑のように聞こえるようになった。自分のつま先を見て歩くことが多くなった。しかし基本設定に誉められて育ったがゆえの自己肯定感の強さも持ち合わせており、笑われる気がするなら笑われるような格好をすればいいと、極端な行動に出る。大学生時代に長髪をピンクや青に染め派手な格好してたのはその理由のひとつだ。
 引き篭もりのくせに目立ちたがり屋。なんともアンビバレントな状態が常の扱いがたい人物となり、まさに自業自得のカルマの深みにはまっていくのだった。

 だからこそ”Chack and the Girl”にはそんな思春期を迎える前の自分自身の性に対して無自覚でいられる最後の姿を描きたかった。そこには楽しい思い出と、これから彼女が乗り越えていかなければいけない試練の予感が内包されている。それは誰もがいつかぶち当たる壁でもある。だがしかしそれは必ず乗り越えることができる壁である。もちろん彼女も壁を乗り越えて大人になっている。
 ”Chack and the Girl”のシリーズは発表することで大人になった私が私自身の子供の頃をもう一度肯定し、拗らせていた10代以降の自分自身も含めて受け入れようという極めて私的なプロジェクトだ。


”__________それでも世界は美しく輝いて見える。”
「Chack and the Girl in Wonderland」の序文の最後に添えた言葉は40代になった今の私の(祈りのような)素直な気持ちだ。


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