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ブルガリア世界ジュニア選手権

1990年8月08日から12日まで ブルガリアのプロブディフで 行われた 世界ジュニア選手権陸上
これが 今では考えられないことだらけ、1989年に社会主義が崩壊して すぐのブルガリア おそらく今の世界を生きてる人には 想像ができないと思う 出来事だらけ。さて ここから色々記載していきます。
まず、私は選手団と試合の3日前に同国に入り まず 選手の槍が届かなかった。これにはどうも言えなく。苦情をつけて 航空会社とも話したが 拉致があかず そこで 終わり。そして 日本選手団はバスに乗せられて ソフィアからプロブディフまで2時間の移動。道は舗装されてるが、社会主義時代の舗装 半分は 地道状態 選手は皆口々に 苦情を言うが ここは我々黙って プロブディフ到着
選手のID.   ホテルの部屋割りなどをもらい ホテルレニングラード かなり高層のホテルで外から見る分には、うんうん こんな感じかなってとこで 
ロビーに入ると エレベーターに長蛇の列 なんで なんで 簡単な答えが返ってきた。エレベーターが遅い そして 1台しか動かない
日本選手団は 皆 22階と23階が部屋 階段を上には長すぎる 待つしかない。かれこれ疲れたからだを騙し騙し 40分程度待ってやっときた。
大きなエレベータで 10人くらいは乗れたけど 荷物もあり 結局一回の輸送で 7人 8回くらいにわけて まず部屋にチェックイン 監督の勝亦先生の指示で全員 チェックアウトが済んだら 一階のレストラン集合。選手たちは 小言を言いながら ばらけ 我々コーチも 荷物を紐解くことをせず 1階まで エレベーターが来ないので 階段でのんびり降りてゆくが
これがまた 長い そして 暗い もうなんて場所だって 小言を言いながら 他の先生がたと 階段をおりた。大会側からあてがわれた レストランの席に着くと 食事は出てくるしかし、どれも見たことのないものばかりそして ど定番のヨーグルト三昧 そして 大会スポンサーのコカコーラからのオレンジジュースは水で三倍くらいに薄められており オレンジ色の水を飲んでるようなもの。選手たちの手前 わがままは言えない コーチ 先生方 食事が終わり 部屋に戻るにはエレベーターで上がらないといけない
この先毎日この苦労があるかと思うと、地獄の入り口ってこれ買って思うほどだった。(アメリカチームはこの状態をよんでいたのか 2階と3階に陣取って 悠々自適な感じで 少々むかついた。
さてエレベーターで我々の階22階についてドアが開くと22階のフロアーとエレベーターはずれて止まっており、降りる時は両腕を22階のフロアーについて 腕立ての要領で登って降りると言う凄さ もう本当にすごかった

ここは地獄がって思った一瞬だった。その後エレベーターは修復され、4台が動くが、気まぐれ三昧。これには閉口した。

朝食も 昼食 夕食 あんまり変わりないけど 無理言わず とっていた時
突如 一人のコーチが サラダ食ってないな オーダーできんかなってってことで 俺が キッチンにサラダをオーダーすると ミックスサラダと称して、出てきたのは トマトときゅうり切らず丸のまま それがサラダだった。これにはあいたくちが塞がりません。そんな中、大会が始まり 夕闇が迫り さて照明はって時 驚きの光景が 競技場に照明の用意はなく 各コーナーに車を配備して 車のヘッドライトで灯りを。これには呆れて どうにも
そんな中 日本の混成選手は頑張っていました。また ブルガリアの蚊は刺されると 痛い そして猛烈な痒みに襲われこれにも苦労した。幸い ホテルは窓を開けて 蚊は来なかったけど、アメリカ選手団の下層階はかの集団にやられたとかで 一体この大会どうなんだって感じだった。


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