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川崎の飛燕戦闘機とOH-1 意匠の伝承

 川崎重工は相当な予算と本職エンジニアをボランティアで動員し三式戦闘機飛燕を修復した。その時期は各務原航空博物館のリニューアルと重なり、神戸から帰ってきた飛燕は、ばらばらのまま博物館裏のバックヤードで臨時に展示していた時期があった。平成29年(2017)1月のことだ。何度も見学に出かけた。

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 その時博物館で手に入れた冊子にXOH-1のモックアップ機の前に立つ土井武夫さんの写真が掲載されていた。感激し、昔のことを、またまた思い出してしまった。

 それは平成10年(1998)のことだからXOH-1の技術実用試験も佳境に入っていた頃のことだった。
 明野の飛行実験隊で同僚パイロットと議論していた。意匠は伝承されるや否や。是なりと。OH-1のシルエットに3式戦闘機「飛燕」の影を感じたのだ。ノーズキャノピー前後のラインのまとめ方等々に3式戦を彷彿させるものがあるでしょう。

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 3式戦。皇紀2603年(昭和18年)に制式化された川崎製の陸軍機。3式戦については独国メッサーシュミットの模倣だと思われる向きが多いのだがエンジンはさておき機体は日本のオリジナルで、伝説的な故土井武夫氏の作品だ。1式戦「隼」が世に出たときも、海軍機零式艦戦が世に出たときも、運用者はその開発のあり方に抵抗していた。零戦は96艦戦に勝てないし、隼は97戦に勝てなかったものだから、こんなに大きくて鈍重な戦闘機など必要ないというのだ。戦いの土俵が変遷を遂げているのに古い土俵のことしか念頭に浮かばない。自戒したいものだ。

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 3式戦も同様で、昭和16年には完成していたプロトタイプ機の制式化が、他にも理由があったとはいえ2年も遅れてしまった。零戦や隼は大東亜戦の後半には時代遅れな戦闘機となっていた。だが発動機の問題を解決した3式戦や液冷から空冷発動機に換装した5式戦は敗戦の日まで第一線機として欧米戦闘機を駆逐し、その空戦性能において一歩も引けを取らなかったのだった。

 この3式戦の飛行試験は各務原と明野で行われた。だが戦備の度の要求は十分な試験と不備事項の改修の暇を与えなかった。見切り発車の状態で量産しつつの現場での応急改修。ひきつづく戦隊編成とラバウルへの移動。改修が間に合わず川崎の技術者は軍属に身を代え戦隊に同行した。
 移動しつつの困難な改修作業。
 3式戦初の戦隊としての長距離移動。機体の不調と航法の拙劣。戦隊の先遣隊12機編隊ははばらばらになり、予定どおりラバウルに到着したのは戦隊長機のみだった。手前の予備飛行場にも着くことができず、宿敵にまみえることなく南海に消えた機体もあった。搭乗員の無念。付け焼き刃の試験を余儀なくされた試験員の無念。

 技術者に意匠の伝承があるように、搭乗員や試験員にだってある、試験魂の伝承。戦後初の陸上航空実用機、ヘリコプターの純国産開発。今こそその無念を晴らそうと。
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 当時そんな話しをしていたのに、OH-1は飛燕と同じく某社製のエンジンで苦しんでいるらしい。そこまで伝承することはないのに。

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