08話-上杉鷹山公の藩政改革
みちのくのエスカルゴ号車旅
5日目 2022.04.12 その3
旧米沢高等工業学校本館の記念館を後にして西に進む、1kmと少し歩くと住宅街の端にでる。その住宅の端に沿って米沢の街を囲むようにJR米坂線の軌道があり、その向こうは豊かな水田が広がっている。
米坂線は小国(おぐに)街道、現国道113号にそって、ともに米沢と越後新潟平野の北部と結んでいる。
上杉鷹山公の藩政改革
ここはその街道の話しではなく、水田のほうだ。
米沢藩は藩籍を幕府に返納すべく動いていたことがある。財政破綻していたのだ。そんな時期に養子として上杉家を継いだ上杉鷹山。
鷹山(ようざん)は仏号で本名は治憲だが、人口に膾炙する鷹山を使いたい。
明和4年(1767年)に家督を継ぎ17歳で米沢9代藩主となった鷹山は、江戸を出て未知の国、米沢に赴く。そこで藩の財政破綻といかに向き合ったか。貧乏くじを引てしまったと思っただろうか。
中央、即ち幕府も財政立て直しに躍起となっていた。
老中田沼意次は商業を重視し経済活動を重視し景気を回復させたのだが、金の回るところ贈収賄蔓延り、さらに天明の飢饉や浅間山の噴火などに追い打ちをかけられ失脚する。
次の老中松平定信は田沼の逆に緊縮財政をおこない備蓄を重視し、贅沢を廃させ、娯楽風俗を取り締まり、朱子学以外の学問まで禁止した。寛政の改革だがこんな政策で世が鎮まる分けがないだろう。
米沢に入る峠で煙管から取り出した火種を見て、これは改革を目指す心の火であるべきだと、その火種をあまねく人々の心に宿したいと。上杉鷹山の米沢入りでの有名な逸話だ。
鷹山はその心の火種に共感する腹心を得て改革を進めていく。
先ず隗より始めよなのだろう。自らの経費を8割削減し、藩主の食事と衣服は、一汁一菜に木綿とした。そして藩の改革が進められていった。
七家騒動勃発
火種に共感する者に倍して反感が蔓延っていいくのも世の常だ。
鷹山が藩主となって7年後に七家騒動勃発。重役7名の署名による45か条の訴状が鷹山に突き付けられた。
腹心を重用すること、そして無駄な改革を直ちにやめて旧に復せよと云うのだ。
重心たちは鷹山が回答するまで対峙を解かない姿勢を示している。隠居していた先代藩主上杉重定が出てきて場を治めた。
さあどうする。
鷹山は義父重定も含め、上に連座していない他の重臣たちと協議し、断行した。この断行ができるかできないかが歴史の分かれるところであり、鷹山の人物だろう。
それは切腹を含む厳粛な裁きであった。
後にこの騒動を主導したとされる藩医の藁科立沢(わらしなりゅうたく)は斬首された。
老中松平定信の緊縮一本槍の改革は挫折した。
一方鷹山は藩の支出を抑えつつ、御用窯まで作り焼き物(現代の米沢焼に伝承されている)や、養蚕など地場産物の開発興産を奨励し、田畑を開墾し、用水路を整備し、藩校「興譲館」を創立し、藩士のみならず農民も意見を言える「上書箱」を設置するなど、民の仕合わせのための改革を推し進めていった。
天明の大飢饉
七家騒動から10年後、天明3年(1783年)岩木山、浅間山が相次いで噴火、それ以前から冷害などで農作物の収穫が減っていたのに、火山が噴火した。天明の大飢饉の始まりだ。この悪害は数年に亘り日本、なかでも陸奥の人々を苦しめた。この数年間で飢えと疫病による死者は日本全国で90万人を超えるようだ。同じ陸奥の弘前のそれは10数万人と云う。
この天災を米沢藩ではそれまでの改革成果に加え、備蓄を放出し麦作を奨励し、他藩が米の江戸廻米を継続する中、越後酒田から藩民の3ヵ月分の米を買い入れるなどの政策により、1人の餓死者もださなかったと云う。
鷹山公の籍田の記念碑
写真は旧米沢高等工業学校本館の記念館の次に向かった地で鷹山公の籍田の記念碑だ。
籍田とは古代中国の周の国で、天子が自ら田を踏み耕し収穫した米を祖先に備える儀礼で、鷹山はその故事に習いまた農民を労うもののようだ。
老婆の手紙からわかること
籍田の礼だけでも鷹山公の民に対する姿勢が分かるが、こんなこともあった。致知出版社のホームページ「細井平洲が育てた名君・上杉鷹山の姿 ~あるお婆さんの手紙から~」を借りる。(⇦リンク)
そこには、
名君・鷹山の人柄を示す1枚の手紙があります。ある農家のお婆さんが娘に当てた手紙で、原文はカタカナ表記ですが、ここでは漢字とひらがなを交えて読みやすく表現してみます(一部抜粋)。
「秋稲の散切(ざんぎ)り干し終(しま)い、夕立がきそうで気をもんでいたら、二人のお侍が通りかかって、お手伝いを受けた。帰りに刈り上げ餅あげ申す、どこへお届けするかと聞いたら、お上屋敷北の御門から言っておくとのこと。それで福田餅三十三丸めて持って行き候(そうろう)ところ、お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりで、たまげはて申し候。そして、ご褒美に銀五枚いただき候。それで家内中と孫子残らずに足袋くれやり候」
上のホームページにはこの老婆の手紙を紹介したあとに、次の「 」ないの補足があった。
「鷹山が家臣一人だけを伴い、お忍びで庶民の様子を見て回っていたことも感動的ですが、そこにはもう一つの目的がありました。その年の米の出来具合を自分の目で確かめようとしていたのです。万一、不作と予測できれば、他処に買いつけに走るなど早めに対処することができるからです」と。
飢饉にもかかわらず他の藩は財政を守るため、民を顧みず江戸への廻米を継続していたのに、鷹山はそれを中止するばかりか余裕のある藩から米を購入したことの合点がいく逸話だ。
黒井堰、穴堰 用水路の大工事
農政改革の中で用水不足のため、米の作付けに難儀する米沢盆地北側の農地へ用水路を整備させた。担当の奉行黒井半四郎忠寄は大工事を敢行。全長8里(32km)の水路は黒井堰(⇦リンク)と今でも名が残り、米沢平野農業水利事業の幹線水路として利用され、最上川の水を水田に送り続けている。
また年に2か月しか雪が解けない飯豊山の標高1500mから20年をかけて難工事をおこない水を引いた。その水路は穴堰(⇦リンク)と呼ばれた。
道端の無人販売所
そう外国からの客に驚かれる、日本のあちこちの道端に置かれた無人の販売所、上杉鷹山を書いた童門冬二によれば、これは米沢から始まったとされていたかと、うろ覚えだが。
日本人の社会でしか成り立たないのではと思っているが、好きな言葉ではないのだが国際化のなかで、いまこれは成り立っているのだろうか。
ナショナルジオグラフィック日本版のサイトに
「正直者が支えた、道端の無人販売所」(⇦リンク)の記事がある。登録する手間はあるがそうすれば無料閲覧できる。1908年かそれ以前に撮られた無人販売所の写真がそこに掲載されている。無言の信頼で成り立つ商品が竹棒に吊るされている。こんな日本の美徳を失いたくはない。
旧米沢高等工業学校本館の記念館から1kmを進んだ鷹山公の籍田の碑。いま1030時だが、紀行文ではまた1日かかっている。朝05時から活動を開始して、駐車場で2時間前に朝食を喫したばかりだが、いささか空腹となってきた。先を急がなきゃ。
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