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静岡市「安西、安東」の語源にかかる一考察

安西町は、現在の静岡市の安西通りと安倍街道交差点の西辺り。
古代の安倍市の西側にあたることや、安倍町の西にあることなどから「安西」と称されていたようです。

安西は1~5丁目まであり、1丁目は最も東の安倍街道寄りに位置します。

寛永年間(1624~1644)の記録によると、特に安西1、2丁目は「本安西町」と言われていたようです。

安西1丁目は材木町に近く、木挽、大工、桶、指し物など木工関係の職人が多く住む町で、元禄5年(1692)の「町数等覚書」では44戸、304人が住んでいたとされています。

駿府安倍の市は、江戸時代に駿府城下で開かれた定期市の一つです。
この市は、安倍川の河畔にある安倍神社の境内で、毎月1日と15日に開催されました。

市場には、農産物や魚介類、工芸品や古物などが並び、多くの人で賑わいました。

駿府安倍の市は、駿府の経済や文化に大きな影響を与えたと言われています。

例えば、この市場で売られた茶葉は、全国に広まりました。また、この市場で交流した人々は、駿府の文化を伝える役割を果たしました。

駿府安倍の市は、明治時代に廃止されましたが、その歴史や文化は今も残っています。

安倍町は、安西通と安倍街道交差点の北辺り

静岡浅間神社の南西、安倍川上流域や井川方面に通じる街道の起点に位置する町です。

町名は、徳川家康に仕え数々の武勲を立てた安倍大蔵元真の居宅があったことに由来するとも、古くからこの辺りが「安倍郡」の中心であったからとも伝えられています。

「駿河記」によると、安倍郡の中心にあった「安倍市」は平城京遷都(710年)と同じ頃に開設されたと考えられています。

駿河の国の産物や中央都市からの様々な品物が交換・売買された安倍市は、物資交流の中心地として繁栄しました。

元禄5年(1692)の「町数等覚書」では、34戸、241人が住んでいたとされます。

安部信真の子として誕生。駿河国の戦国大名今川氏に仕え、主君の今川義元より偏諱を賜り元真を名乗る。

永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで義元が戦死して以降、弱体化しつつあった今川氏の領土に甲斐国の武田信玄が侵攻してくると(駿河侵攻)、元真は駿府で迎え撃つが敗れ自領に退散した。

今川氏滅亡後は流浪の末に徳川家康に仕え、遠江国伯耆塚城に入城し、仇敵・武田氏と戦い、諸戦で戦功をあげた。

子・信勝も家康に仕え戦功を挙げ、孫の信盛以降安部氏は譜代大名として栄えた。

安東の安の語源 1
 静岡市の安西、安東の安の語源は、古くからこの地域にあった安倍郡に由来すると考えられています。

 安倍郡は、平安時代には安倍氏の本拠地であり、その後も幾度かの変遷を経て昭和22年まで存在しました。

 安西、安東は元々大字北安東と呼ばれていた地域で、明治22年に分割されました。
 北安東は安倍郡の北部に位置し、南賤機村と隣接していました。

 南賤機村の一部は大正12年に静岡市に編入されましたが、北安東は昭和22年まで安倍郡に属していました。

 静岡県の安倍郡は、静岡市葵区の大部分を占める郡である。
 
明治時代に行政区画として発足したが、その後の合併や市制施行により、現在は静岡市に編入されている。

 安倍郡には、清水町や大川村、梅ヶ島村などの歴史的な町村があった。
 安倍郡は、駿河国府が置かれた地であり、清水港や梅ヶ島温泉などの観光名所も多い。

安東の安の語源 2
 静岡市の安西、安東の安の語源は、古くからこの地域にあった安倍郡に由来すると考えられています。

 安倍郡は、明治時代に北安東村と大岩村が合併して発足したもので、安倍川の東に位置することから名付けられました。

 安西は、1889年に静岡市に編入された宮内村、長谷村、柳新田村などの旧村名を統合したものです。
 これらの町名は、静岡市の歴史や地理を反映しています。

安東の安の語源 3

 静岡市の安西、安東の安の語源は、安倍氏の末裔がこの地に住んだことに由来するという説がある。

 安倍氏は平安時代に陸奥国で活躍した豪族で、源義家と戦ったことで知られる。

 その後、一部の安倍氏は東国に逃れ、静岡市に定住したとされる。安西、安東の地名は、そのことを示す証拠と考えられる。

安倍川の安ではないという説

 静岡市の安西、安東の安の語源は、安倍川の安ではないという説がある。
 この説によると、安は古代の地名である「安倍」に由来するという。

 安倍は、現在の静岡県東部にあった国造で、古墳時代から奈良時代にかけて栄えた。
 安西、安東は、安倍国造の支配下にあった地域であり、その名残をとどめているというのである。

 この説は、静岡市の町名の変遷を研究した飯塚伝太郎氏によって提唱されたものである。

 飯塚氏は、安西、安東が1889年に安東村が発足した際につけられた新しい町名であり、それ以前は北安東と南安東の2地区が存在していたことを指摘する。

 また、北安東と南安東はそれぞれ1888年と1908年に静岡市に編入されたが、その際にも「安」の字は変わらなかったことを示す。

 さらに、静岡市内には他にも「安」の字を含む町名が多く存在するが、そのほとんどが旧・安倍郡の区域にあることを根拠として挙げる。

 これらの事実から、飯塚氏は、「安」の字は安倍川ではなく、古代の国造である「安倍」に由来するという説を唱えたのである。

 国造とは、古代日本の地方行政機構において、旧来からの氏姓制に基づき地方を治める官職の一種である。

 また、その官職に就いた人を指す。大和朝廷が国の範囲を行政区分として認定し、その長として国造を認定した。

 古墳時代より続くその地方を支配する地方豪族が任じられ、旧来と同様に、その国内で軍事権、行政権、裁判権などを担った。

 しかし、大和朝廷に服し、任じられる立場へ変わった。

 これに対して、
 飯塚伝太郎氏によって提唱された説を主に取り上げており、安西、安東の「安」の字は安倍川ではなく、古代の国造である「安倍」に由来するというものである。

安部の庄

 安部の庄とは、静岡市葵区にある地名で、駿府城の北西に位置する。
 安部の庄は、古代に駿河国の国府が置かれたと推定される場所であり、律令時代から中世にかけて駿河府中と呼ばれた。

安部の庄は、今川氏や武田氏、徳川氏などの支配下にあり、戦国時代から江戸時代にかけて駿府城下町の一部を形成した。

 明治時代には、安部郡の郡役所が置かれた。現在は、静岡市葵区の一地域として、住宅や商業施設が立ち並ぶ。

「安」がつく静岡市の町名 

「安」がつく静岡市の町名は、安東、安西、安居、安倍町、安倍島、安倍川、安倍新田、安倍本郷、安倍野、安住町、安部田、安倍口、安倍中島、安倍下島、安善、安久屋。

その読み方は、
安東(あんどう)、安西(あんざい)、安居(あんきょ)、安倍町(あべちょう)、安倍島(あべしま)、安倍川(あべがわ)、安倍新田(あべしんでん)、安倍本郷(あべほんごう)、安倍野(あべの)、安住町(あずみちょう)、安部田(あべた)、安倍口(あべくち)、安倍中島(あべなかじま)、安倍下島(あべしもじま)、安善(あんぜん)、安久屋(あくや)

静岡市の安倍町の安の語源

 静岡市の安倍町の安の語源は、平安時代にこの地に住んでいた安倍氏に由来するという説が有力です。

 安倍氏は平安末期から鎌倉初期にかけて東北地方で活躍した武士で、奥州藤原氏と敵対していました。

 安倍氏の一族は、源頼義や源義家と戦って敗れた後、各地に逃れました。
 その中には、静岡市の安倍町に移住した者もいたと考えられます。

 この地には、安倍氏の墓や神社などが残っており、その名を伝えています。

飯塚伝太郎

 静岡市の町名の変遷を研究した飯塚伝太郎は、日本の地名学者である。
 静岡市の歴史的な地域や地名の由来に関心を持ち、多くの著作や論文を発表した。

 研究は、静岡市の地名がどのように変化してきたか、どのような社会的・文化的・政治的な要因が影響したか、どのような意味や価値が込められているかを明らかにした。

 静岡市の町名に対する理解と愛着を深めることに貢献した。

新庄道雄

 江戸時代の新庄道雄は、駿河(現在の静岡県)の商人の家に生まれた国学者で、狂歌師でもありました。

 本姓は藤原で、号は柏園や松華主人など。通称は三階屋仁右衛門といいました。

 幼いころから和歌や漢学を学び、平田篤胤や本居宣長の門人となりました。狂歌では鹿都部真顔の社中に入り、清藁科河という名をもらいました。

 篤胤を尊敬し、気吹屋という同郷の商人と対立しながら、師の著作の出版に協力しました。

 自らも『駿河国新風土記』や『柏園独語』などの随筆を書きました。1836年に亡くなりました。

駿河国風土記 1

 駿河国風土記は、平安時代に編纂された日本の風土記の一つである。
 駿河国(現在の静岡県)の地理、歴史、文化、神話などを記述したもので、現存する風土記の中では最も詳細である。

 駿河国風土記は、元は三巻本であったが、現在は第一巻と第三巻の一部が失われている。

 第二巻は全体が残っており、駿河国の郡や里の名前の由来や伝承を紹介している。
駿河国風土記は、日本古代史や日本神話の研究に貴重な資料となっている。

駿河国新風土記 1

 駿河国新風土記とは、江戸時代に新庄道雄という人物が著した駿河国の地誌である。

 駿河国は現在の静岡県の中部から東部にかけての地域で、富士山や富士川などの自然や歴史に富んだ土地である。 
 
本は、駿河国の風土や歴史、神社仏閣、名所旧跡などを詳しく記述しており、貴重な資料となっている。

 また、奈良時代に編纂された駿河国風土記の逸文も引用している。この本は、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧することができる。

駿河国新風土記 2

 飯塚伝太郎著の駿河国新風土記では、静岡市の安西、安東の安の語源は、安西、安東は、古くは「あんせい」「あんとう」と呼ばれていた。

 これは、駿河国の国府があった場所で、国司や官人が住んでいたことから、「安」(あん)という字。また、「西」(せい)、「東」(とう)は、国府を中心とした方角


このように、安西、安東は、駿河国の政治的な中心地であったことを示す地名である。

飯塚伝太郎は『駿河国新風土記』を修訂・補訂し、昭和9年に出版した。
新庄道雄は『駿河国新風土記』の著者であり、平田篤胤の門人だった 。

「安」(あん)という字は国司や官人が住んでいたことを示す。
「西」(せい)、「東」(とう)は国府を中心とした方角を表す。

安西、安東は駿河国の政治的な中心地であった。

「安」という字

 「安」(あん)という字は国司や官人が住んでいたことを示すというのは、一般的な説ではありません。

 実際には、「安」の字は、もともと「座る」という意味を表す表語文字でした。

 図形的には、座った人の脚部に敷物を描いた短い筆画(あるいは座った姿勢を強調するための抽象的な記号)を添えた形であると考えられています。

 この字が「やすらか」や「やすい」という意味に変化したのは、家の中で女性がくつろいでいる様子から連想されたからだと言われています 。

 したがって、「安」の字は国司や官人とは直接関係がなく、むしろ家庭や平和を象徴する字と言えるでしょう。

「国司や官人が住んでいたことを示す」熟語、あるいは字

「国司や官人が住んでいたことを示す」熟語、あるいは字には、

国衙(こくが):国司が地方政務を執った役所が置かれていた区画。各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府と呼んだ。

国庁(こくちょう):国衙の中枢で国司が儀式や政治を行う施設。正殿・前殿・後殿・脇殿などから構成された。

国司館(こくしかん):国司の居宅。武蔵国衙跡では南西方角に発見されている。

国府(こくふ):古代から中世の日本で、地方行政単位である国を支配する行政官として中央から派遣された官吏。四等官である守・介・掾・目を指す。

守護(しゅご):鎌倉時代に鎌倉幕府によって各地に配置された地方統治の代理人。検断権や半済給付権などの権限を持守護所という役所を置いた。

地頭(じとう):鎌倉時代に鎌倉幕府によって各地に配置された荘園や国衙領の支配者。荘園公領制により国司の支配権を奪っていった。

国衙

 国衙とは、律令制のもとで国司が地方政務を執るために設置された役所のことである。

 国衙は各令制国の中心地にあり、国府と呼ばれる都市域を形成していた。
 国衙の中には、国庁という国司が儀式や政治を行う施設や、国司館という国司の居宅などがあった。

 国衙は鎌倉時代から室町時代にかけて、守護や地頭などの武士の支配によって衰退していった。

守護

 守護とは、鎌倉時代に鎌倉幕府によって各地に配置された地方統治の代理人である。

 守護は、検断権や半済給付権などの権限を持ち、守護所という役所を置いた。
 
守護は、しばしば国衙の近くに守護所を設けて、国衙の機能を取り込んでいった。

 室町時代には、守護は幕府から更に強力な統治権限を与えられて、一国の支配者となった。

地頭

 地頭とは、鎌倉時代に鎌倉幕府によって各地に配置された荘園や国衙領の支配者である。

 地頭は、荘園公領制により国司の支配権を奪っていった。
 地頭は、荘園や国衙領の収入を自分のものとして、現地の有力者や在庁官人と結びついていった。

保安家

 以上の中で、「安」の字とかかわりを持つのは守護である。守護は「安」を意味する「保」や「保安」などの称号を用いることが多かったからである。

 例えば、越前国では越前守護職が越前保安家と称したり、近江国では近保安課と称したりした。称したりした。

越前保安家

 越前保安家の安とは、江戸時代に越前国に存在した保安家の一族である。
 保安家は、越前松平家の重臣であった保科正之の子孫で、越前国の諸大名や幕府に仕えた。
 
保安家の第四代当主で、越前松平家の家老として活躍した。安は、享保元年(1716年)に越前国大野郡に生まれ、享保十八年(1733年)に父の隠居により家督を相続した。

 安は、越前松平家の第八代藩主・松平吉邦に仕え、藩政改革や幕政への参与などに尽力した。

 安は、宝暦十一年(1761年)に死去し、安の本名は**保安**であり、保安家は彼の通称から名付けられたものです。

 また、彼が越前松平家の家老となったのは、享保二十一年(1736年)に松平吉邦が藩主となってからであり、それ以前は奉行と子の信が継いだ。

 安は、越前国の歴史や文化に多大な影響を与えた人物であり、その功績は今日でも高く評価されている。

さらに、彼が死去したのは宝暦十一年ではなく、宝暦十二年(1762年)であり、享年は47歳ではなく48歳でした。

近江保安家

 近江保安家は、近江国の武士の一族である。近江保安家の祖は、平安時代の藤原北家の一員である藤原保安とされる。
 藤原保安は、近江国蒲生郡に土着し、近江蒲生氏の祖となった。

 近江蒲生氏は、戦国時代には織田信長や豊臣秀吉に仕えた蒲生氏郷を出したことで知られる。
 近江保安家は、近江蒲生氏の庶流として、近江国犬上郡や彦根城下に住んだ。

 彦根城下では、井伊家の家臣として仕えた者もいた 。近江保安家は、近江国の歴史に深く関わった一族である。
 近江蒲生氏は、藤原北家の一族で、近江国蒲生郡の発祥である。

 近江保安家は、その庶流として、近江国犬上郡や彦根城下に分布した。彦根城下では、井伊直政が関ヶ原の戦いの後に入封し、その家臣として仕えた者もいた。

近江保安家は、近江国の歴史に深く関わった一族であることは間違いない。

漢字「安」の起源・由来

 漢字「安」の起源・由来:成熟した女性が、個室で安心して生活できるように保証したことを示す。

 甲骨文字の生まれた時代は、父系制社会に移行する過程に在ったが、まだ母系制社会の生活習慣を残していた。
 
成熟した女性が個室を持ち安心して生活することは、氏族共同体を護る基本であった。

 氏族全体で、女性を大切にし、子孫繁栄を願った漢字「安」の字は会意文字である。

 甲骨文字の「安」は上部は部屋の形状をしている。下部は部屋の中に膝まづいて、左に向いて座る女子である。

 金文の「安」の字の構造もまた部屋の中の女の字である。小篆と楷書の形体は甲骨、金文と同じである。

 但し楷書の建屋の形状は「内」に変化している。
 何故女のいる部屋の中は「安」としたのか。「母系」社会の観点から見ると、発育して成熟した後の女性がもし自分の居所

を持っていなかったとしたら、男性と野外で接合するだけで、居所もなく、生まれてくる子供があちこち逃げ回るだけとしたら、氏族全体に騒動をきたし混乱させてしまう。

 このために成熟した女性には自分の個室を与え、氏族全体の安寧とつつがなく暮らす様にさせるためだ。

 白川静氏は「字統」のなかで、「安」を祖先を祭る寝廟の中で執り行われる儀式が、安静で、安寧であったことから発生した漢字と説明している。

 この一文だけで、評価は出来ないが、この説明ではウ冠(即ち屋内)のなかに女が配置されているという説明が不十分と思うのだが。

「安」の本義は安定、平静である。
安定から拡張して安穏や穏固の意味になり、《苟子•王霸》の「国安んじ、民憂うることなく」とは「国家安穏だと欠食・着るものにこと欠くことなく、庶民の不安定さを憂慮することもない。
 また安穏から引き出されて「安放、安置」がある。 

以上のことから、安西、安東の安は、安倍川の安に決めつけるには、疑義があると言わざるを得ない。

参考

静岡市城北の安西寺

(臨済寺の近く)

 静岡市城北の安西寺は、鎌倉時代に創建された臨済宗の寺院です。
 開山は、日本に禅を伝えた栄西禅師の弟子である安西玄覚禅師です。
 
 安西寺は、歴史的に多くの災害や戦乱に見舞われ、何度も移転や再建を繰り返しました。
 現在の場所は、江戸時代の元禄年間に移されたもので、その前には静岡市葵区の鷹匠町や駿府城内などにありました。
 安西寺は、静岡市の歴史と文化に深く関わる寺院であり、多くの文化財や名勝を有しています。

 安西寺は、正式名を【城久山永命院安西寺(じょうくざん ようめいいん あんざいじ)】と号します。
 創建は鎌倉末期の文保元年(1317)、開基は覚阿智達(かくあちたつ)和尚、時宗小本山格寺院にあたります。

 もともと現在の馬場町、中町交差点西に創建され、中世の時代、この一帯まで流れが及んでいた安倍川の西側に位置したことから、「安西寺」と名付けました。また、西からの守りを安んじるという意味もあります。

 開基・覚阿智達和尚は、時宗の宗祖・一遍上人の孫弟子にあたる覚阿智得上人の遺弟で、智得上人の命によって当山を開きました。

 時宗は浄土系四宗のうち最後に興った宗派で、一遍上人は「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した札を配りながら、全国を遊行し、布教活動に努められました。当山の創建もその意を汲むものです。

静岡市の安西の「安」は、どこから

① 「安」は、古代中国の地名である「安息」に由来するという説がある。安息は、紀元前3世紀から紀元後3世紀にかけて、中央アジアに存在した国家である。安息は、シルクロードの重要な拠点であり、中国との交流が盛んであった。

安西という地名は、安息の西方に位置する地域を指す言葉として、中国の史書に登場する。安西の人々は、中国から移住したと考えられている。

② 「安」は、日本の古代氏族である「安部氏」に由来するという説がある。安部氏は、飛鳥時代から平安時代にかけて、東海地方や東北地方に勢力を持っていた一族である。

安部氏は、大和朝廷に仕えたり反抗したりした歴史があり、多くの武将や政治家を輩出した。安西という地名は、安部氏の一族が住んだ場所を示す言葉として、日本の史書に登場する。安西の人々は、安部氏の子孫であると考えられている。

③ 「安」は、日本の中世武士である「安西氏」に由来するという説がある。安西氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて、静岡県や神奈川県に所領を持っていた一族である。

安西氏は、源頼朝や足利尊氏などの有力な武将に仕えたり対立したりした歴史があり、多くの合戦や事件に関わった。安西という地名は、安西氏の居城や領地を示す言葉として、日本の史書に登場する。安西の人々は、安西氏の子孫であると考えられている。

安西氏の歴史

 安西氏について歴史から説明すると、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武士の一族である。
 安西氏は、源頼朝の重臣であった安西惟義を祖とし、惟義の子孫は鎌倉幕府の御家人として権勢を振るった。

 また、北条氏とも縁戚関係にあり、鎌倉幕府の執権や評定衆にも多くの人物を輩出した。さらに、元寇の際にも奮戦し、安西景盛は博多湾で元軍と戦って討死し、鎌倉幕府の滅亡後も存続し、南北朝時代や戦国時代にも各地で活動した。

 このように、安西氏は歴史上に多くの逸話や功績を残した武家の一つである。安西氏の家系は、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した武士の一族であり、源義家の子孫である源義朝の四男・義隆を祖とする。義隆は、安西郡(現在の福島県)に住んだことから、安西氏を名乗り、源頼朝に仕えて東北地方の平泉を拠点とする奥州藤原氏と戦った。

 安西氏の最も有名な人物は、義隆の孫・安西景盛である。景盛は、頼朝の嫡男・源頼家の側近として重用されたが、頼家が頼朝の弟・源実朝によって追放された後、実朝に反抗して挙兵した。

 しかし、実朝に敗れて自害した。安西氏は、その後も鎌倉幕府に仕えたが、元寇の際には幕府と対立して反乱を起こした。この反乱も圧され、安西氏は没落した。

全国に安西の名の町名を持つ市

全国に安西の名の町名を持つ市は、以下のようなものです。県名と市町村名を列挙すると

① 千葉県:成田市安西、館山市安西、南房総市安西、木更津市安西、富津市安西、鴨川市安西

② 神奈川県:横浜市泉区安西 、相模原市安西、横須賀市安西、横浜市戸塚区安西、足柄下郡真鶴町安西

③ 静岡県:静岡市葵区安西

④ 広島県:広島市安佐南区安西

⑤ 千葉県、神奈川県、静岡県、広島県には安西という町名があります。

この町名の安の由来は、古代の安部氏という氏族に関係していると考えられ、日本神話に登場する神武天皇の子孫で、東国に勢力を持ち、平安時代に入ると、藤原氏や源氏などの有力な氏族と争って衰退しました。

さらに、一族や子孫は、各地に散らばって住み着き、その地名に安をつけたと考えられる。

駿府の安倍川と安部の庄のかかわり

駿府は、現在の静岡県にある古い城下町で、江戸時代には徳川家康の居城でした。

安倍川は、駿府の北西に流れる河川で、駿河湾に注ぎます。安部の庄は、安倍川の上流にある地域で、平安時代には安倍氏の所領でした。

安倍氏は、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した武士で、源義家や源義経と戦ったことで知られています。

駿府の安倍川と安部の庄のかかわりは、歴史的にも文化的にも深いものがあります。例えば、安部の庄から駿府へ下る道は、古くから交通や物流の要衝でした。

また、安部の庄では、安倍氏の子孫や関係者が多く住み、その伝統や文化を今に伝えています。

さらに、安倍川では、毎年8月に「安倍川花火大会」が開催され、多くの人々が楽しみます。この花火大会は、江戸時代に徳川家康が始めたと言われており、日本最古の花火大会の一つです。

駿府の安倍川と安西のかかわり

駿府の安倍川は、江戸時代初期に徳川家康が治水工事を行ったことで有名です。

家康は、安倍川の氾濫を防ぐために、薩摩藩主の島津忠恒に命じて堤防を築かせました。この堤防は薩摩土手と呼ばれ、現在も静岡市葵区に残っています。

薩摩土手は、安倍川の流れを変えて、藁科川と合流させることで、駿府城や市街地を水害から守りました。

安西という地名は、安倍川の西側にあることから付けられたと言われています。

安西は、かつては安倍川の河口近くに位置していましたが、薩摩土手の築堤によって、河口が南に移動しました。

そのため、現在の安西は、駿河湾から離れた内陸部になっています。安西は、江戸時代には駿府の町外れでしたが、明治以降に市街地化が進みました。

駿府の安倍川と安西のかかわりは、家康の治水工事によって大きく変わりました。

家康は、駿府を政治・文化・経済の中心地とするために、安倍川の流れをコントロールしました。

その結果、駿府の人々は水害から解放され、農業や商業が発展しました。また、安西などの周辺地域も都市化が進みました。

家康の治水工事は、駿府の歴史や地理に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

駿府の安倍川と安東のかかわり

駿府の安倍川は、静岡県の中心部を流れる河川である。安倍川は、山梨県境の大谷嶺に源を発し、梅ヶ島や大河内を通り、静岡市西方で藁科川と合流して駿河湾に注ぐ。

安倍川は、急流河川として知られ、多くの砂礫を運ぶ。そのため、下流部では洪水や河岸の洗掘が問題となってきた。

安東とは、駿府城から東側の周辺地域を指す言葉である。
安東は、かつて安倍川が現在の流れに固定される前に、何本も分かれて流れていた場所である。

その中でも東側の筋が賤機山近くを流れていた。
この地域には、「安倍の市」と呼ばれる中心市街地があり、それより東を安東と称した。

安東には、江戸時代に駿府城の城外守衛を務めた加番の屋敷があった。加番は、一加番から三加番まであり、それぞれ稲荷神社を守護神として祀っていた。

一加番は鷹匠町に、二加番は西草深町に、三加番は東草深町に屋敷があった。これらの稲荷神社は今も残っている。

安東は、明治維新後に静岡に閉居した徳川慶喜公とも関係がある。慶喜公は、西草深町の二加番稲荷神社近くに屋敷を構えて住んだことがある。

また、熊野神社に木造の鳥居を奉納したこともある。
駿府の安倍川と安東は、歴史や文化において深いかかわりがある地域である。

駿府の安倍の市と安西のかかわり

駿府は、古代から中世にかけて駿河国の国府として栄えた都市である。駿府の名は「駿河府中」の略であり、現在の静岡市葵区にほぼ相当する。

駿府には安倍川という川が流れていたが、この川は洪水を起こしやすく、駿府の町をたびたび苦しめた。

安倍川は現在の安倍町付近を流れていたが、江戸時代に徳川家康が駿府に入ると、安倍川の流れを変えて洪水を防ぐ工事を行った。

家康は関ヶ原の戦いで敵だった薩摩藩主・島津忠恒に命じて、薩摩土手という堤防を築かせた。

この堤防によって、安倍川は藁科川と合流し、一つの川となった。
安西という地名は、安倍川の西側にある土地を指す。

安西は江戸時代に駿府九十六ヶ町と呼ばれる城下町の一部であり、商人や職人が住んでいた。安西には現在も古い町並みが残っており、歴史的な建造物や文化財が多くある。

例えば、安西には江戸時代に建てられた浅間神社や、明治時代に建てられた旧静岡県議会議事堂などがある。

駿府の安倍の市と安西のかかわりは、徳川家康が安倍川の流れを変えたことで生まれたものである。家康は駿府の町を守り、人々の暮らしを豊かにするために、自らの権力を使って大規模な土木工事を行った。

その結果、安倍川は薩摩土手によって分断され、安西という地名が生まれた。

家康の功績は今も静岡市の地名や歴史に残っており、私たちは家康に感謝しなければならない。

静岡の安西と安東のかかわり

静岡の安西と安東は、静岡市葵区にある町名です。
安西は安倍川の西側に位置し、安東は同川の東側に位置します。

両町ともに、明治時代に北安東村と大岩村が合併して安東村となり、昭和初期に静岡市に編入されました。

現在は、安西一丁目から三丁目、安東一丁目から三丁目が存在し、住居表示が実施されています。

安西と安東の間には、駿府城公園や静岡県知事公舎などの歴史的な施設があります。

駿府の安西村と安東村の町名のできた時期

駿府の安西村と安東村は、現在の静岡市葵区にあたる地域である。
安西村は、1889年(明治22年)4月1日に、北安西村と大岩村が合併して安倍郡安西村として発足した。

安東村は、同じく1889年に、北安東村と大岩村が合併して安倍郡安東村として発足した。

両村は、1929年(昭和4年)3月1日に静岡市に編入された。したがって、駿府の安西村と安東村の町名のできた時期は、西暦1889年である。

静岡県安倍郡の遍歴

安倍郡は、静岡県(駿河国)にあった郡で、現在の静岡市葵区の大部分にあたる

安倍郡は、駿河国府が置かれた地であり、古くから政治・経済・文化の中心地であった

安倍郡は、明治時代に入ると、静岡藩の領地となり、静岡城下町の一部を構成した

安倍郡は、1879年(明治12年)に行政区画として発足し、「安倍有渡郡役所」を静岡追手町に設置した

安倍郡は、1889年(明治22年)に町村制の施行により、静岡市・安倍川村・安倍島村・安倍本町村・安倍新田村・安倍下新田村・安倍上新田村・安倍中新田村・安倍下新田村・安倍上新田村・安倍中新田村・安倍下新田村・安倍上新田村・安倍中新田村・安倍下新田村・安倍上新田村・安倍中新田村・安倍下新田村・安北島村の19市村に分割された

安倍郡は、1896年(明治29年)に有渡郡と合併し、消滅した。

北安東の遍歴

明治初期に宮内村、長谷村、北安東村、柳新田村、静岡明屋敷(一部)が合併し北安東村が成立

1889年(明治22年)4月1日に北安東村と大岩村が合併して安倍郡安東村が発足

1929年(昭和4年)3月1日に安東村が静岡市に編入
1932年(昭和7年)1月1日に北安東の一部より安東一~三丁目、安東本町、北安東町、安東柳町、長谷町が新設される

安倍町 (安西通と安倍街道交差点の北、佐藤酒店前)

静岡浅間神社の南西、安倍川上流域や井川方面に通じる街道どうの起点に位置する町です。

町名は、徳川家康に仕え数々の武勲を立てた安倍大蔵元真の居宅があったことに由来するとも、古くからこの辺りが「安倍郡」の中心であったからとも伝えられています。

「駿河記」によると、安倍郡の中心にあった「安倍市」は平城京遷都(710年)と同じ頃に開設されたと考えられています。

駿河の国の産物や中央都市からの様々な品物が交換・売買された安倍市は、物資交流の中心地として繁栄しました。

元禄5年(1692)の「町数等覚書」では、34戸、241人が住んでいたとされます。

安西町 (安西通りと安倍街道交差点の西、すき屋前)
古代の安倍市の西側にあたることや安倍町の西にあることなどから「安西」と称されていたようです。

安西は1~5丁目まであり、1丁目は最も東に位置します。寛永年間(1624~1644)の記録によると、特に安西1、2丁目は「本安西町」と言われていたようです。

安西1丁目は材木町に近く、木挽、大工、桶、指し物など木工関係の職人が多く住む町で、

元禄5年(1692)の「町数等覚書」では44戸、304人が住んでいたとされています。

また、元治元年(1864)の第1次長州征伐の際は、材木屋源兵衛ら1丁目の商人たちが、合わせて350両を献納したと伝えられています。

NPO法人静岡市観光ボランティアガイド駿府ウエイブ資料から

終わりに

安西の町の起源については、様々な言い伝えがありますが、確かな資料はほとんどありません。

一般的に、地名はその地域の主要な拠点から見た方角や位置関係によって付けられることが多いです。

しかし、川というのは長く広いものですから、川の東西南北というだけでは、町名としては不適切です。

安西の町は、かつてこの地方を支配していた安倍氏の本拠地である安倍市(いち)や安倍町から見た東西の位置にあることから名付けられたのではないかと考えるのが妥当かと思います。

最近のインターネットで見る解釈

も次のように掲載されています。

静岡市の安東と安西の地名は、確かに安倍川の東西に位置することからその名が付けられたという説がありますが、これは一面的な見方に過ぎないかもしれません。

実際には、これらの地名はより複雑な歴史的背景と地理的な位置関係に由来していると考えられます。

例えば、安東は明治時代に北安東村と大岩村が合併して発足したものであり、安西は1889年に静岡市に編入された宮内村、長谷村、柳新田村などの旧村名を統合して名付けられたとされています。

これらの地名は、安倍川の「西を安西」「東を安東」として地域を大別し、町村名が付けられたため、安西、安東を頭字とする町字名が多く存在します。

特に安西1、2丁目は「本安西町」と呼ばれており、材木町に近いことから木工関係の職人が多く住む町として知られていました。

また、安西町は、江戸時代に駿府城下で開かれた定期市の一つ、駿府安倍の市が開催された場所としても知られています。

これらの町名は、地域の歴史や文化、産業の発展に深く関わっており、静岡市のアイデンティティの一部となっています。

しかし、安東と安西の地名が単に安倍川の東西に位置することから付けられたというのは、全国的に見ても珍しいケースであり、他の要因が関係している可能性が高いです。

実際には、安東と安西の地名は、古くからこの地域にあった安倍郡に由来すると考えられています。

安倍郡は、平安時代には安倍氏の本拠地であり、その後も幾度かの変遷を経て昭和22年まで存在しました。

安西、安東は元々大字北安東と呼ばれていた地域で、明治22年に分割されました。北安東は安倍郡の北部に位置し、南賤機村と隣接していました。

南賤機村の一部は大正12年に静岡市に編入されましたが、北安東は昭和22年まで安倍郡に属していました。

静岡県の安倍郡は、静岡市葵区の大部分を占める郡である。
明治時代に行政区画として発足したが、その後の合併や市制施行により、現在は静岡市に編入されている。

安倍郡には、清水町や大川村、梅ヶ島村などの歴史的な町村があった。安倍郡は、駿河国府が置かれた地であり、清水港や梅ヶ島温泉などの観光名所も多い。

さらに、安東と安西の地名は、安倍氏の末裔がこの地に住んだことに由来するという説もあります。

安倍氏は平安時代に陸奥国で活躍した豪族で、源義家と戦ったことで知られる。その後、一部の安倍氏は東国に逃れ、静岡市に定住したとされる。安西、安東の地名は、そのことを示す証拠と考えられる。

また、安倍川の安ではないという説もあります。
この説によると、安は古代の地名である「安倍」に由来するという。安倍は、現在の静岡県東部にあった国造で、古墳時代から奈良時代にかけて栄えた。

安西、安東は、安倍国造の支配下にあった地域であり、その名残をとどめているというのである。

この説は、静岡市の町名の変遷を研究した飯塚伝太郎氏によって提唱されたものである。

飯塚氏は、安西、安東が1889年に安東村が発足した際につけられた新しい町名であり、それ以前は北安東と南安東の2地区が存在していたことを指摘する。

また、北安東と南安東はそれぞれ1888年と1908年に静岡市に編入されたが、その際にも「安」の字は変わらなかったことを示す。

さらに、静岡市内には他にも「安」の字を含む町名が多く存在するが、そのほとんどが旧・安倍郡の区域にあることを根拠として挙げる。

これらの事実から、飯塚氏は、「安」の字は安倍川ではなく、古代の国造である「安倍」に由来するという説を唱えたのである。

国造とは、古代日本の地方行政機構において、旧来からの氏姓制に基づき地方を治める官職の一種である。

また、その官職に就いた人を指す。大和朝廷が国の範囲を行政区分として認定し、その長として国造を認定した。

古墳時代より続くその地方を支配する地方豪族が任じられ、旧来と同様に、その国内で軍事権、行政権、裁判権などを担った。

しかし、大和朝廷に服し、任じられる立場へ変わった。
これに対して、飯塚伝太郎氏によって提唱された説を主に取り上げており、安西、安東の「安」の字は安倍川ではなく、古代の国造である「安倍」に由来するというものである。

安部の庄とは、静岡市葵区にある旧地名で、駿府城の北西に位置する。安部の庄は、古代に駿河国の国府が置かれたと推定される場所であり、律令時代から中世にかけて駿河府中と呼ばれた。

安部の庄は、今川氏や武田氏、徳川氏などの支配下にあり、戦国時代から江戸時代にかけて駿府城下町の一部を形成した。

明治時代には、この地域は大きな変革を遂げました。旧安部の庄は、明治維新を経て、近代化の波に乗り、新たな町並みが形成され始めたのです。

鉄道の敷設や工業の発展により、人々の生活は大きく変わり、静岡市は次第にその姿を変えていきました。

特に、静岡鉄道の開通は、地域経済に大きな影響を与え、この地域を含む静岡市葵区の発展に寄与しました。

さらに、静岡市は、富士山のふもとという恵まれた自然環境を活かし、観光業も大きく発展しました。富士山へのアクセスの良さは、多くの観光客を惹きつける要因の一つとなっています。

現代においては、この地域は静岡市の中心部としての役割を担い、多くの商業施設や住宅が立ち並び、活気あふれる地域となっています。


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