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不思議の国のユージン(映画「MINAMATA」を見てきた)


映画「MINAMATA」を見てきた。いくつか語ることはあるが、まずはよく撮れた映画だと思った(このご時世に!)。あと、もちろんジョニー・デップすごい。役者としても企画者としてもすごい。MeToo絡みで公開されない国があるのは大きな損失だと思う。

この映画、見る前の評判に対して自分の思ってることが、見た後でも変わらなかったのは面白い。それは、映画の細部や出来事にゴチョゴチョ言ってるのは無駄だって思っていたし、見たあとでも同じ意見だ。それをもごもご書いてみる。

映画を見る前にこの映画に関するいろんな噂を聞いていたり目にしていた。やれ風景が違うだの、ホントの出来事と順序が違うだの。今でも苦しんでいる水俣の人々を冒涜してるだの等だ。
でもね、この件、まず、言われてることが全く違うと思ったのは、確か冒頭、「based on true events 」だったのだけど、その翻訳が「真実に即した物語」ってなっていた(このときちゃんと字幕見てなかったが)。英語はホントに起こったことを「もとにした」話だという意味で、みんなが考える「真実の物語がそのまま使われてる」というのとは見方がだいぶ違う。まじで全然違う。これは翻訳のミス?もしくは、わかりやすさを取ったか、機械翻訳を通したかと言う感じ。「ホントのことが描かれてない」と言うかなりの人がここで引っかかってる気がします。

で、「ホントに起こったことをもとにした話」なので、ほとんど見る前に見た聞いた批判は的外れだということが最初の数秒でわかってしまう。
問題はそうした変な批判を先に聞いてしまったので、映画を見ているときに逆に気になってしまうという弊害を感じた。なんにも批判を見ないで映画を見たほうが良かったなと思った。

あと、大事な点としては、この映画はミナマタを題材としてるけど「水俣」そのまの映画ではないということ。
利益を上げる必要があるハリウッド映画であること以上に、水俣だけでなく一段抽象度を上げて、水俣のみならず世界の公害闘争の物語を喚起させるようになっている(しようとしている)こと。

最後の様々な公害のスチールが出てくるけど、それはこの水俣だけでなく世界の問題への問いかけをしたいわけで、これは水俣の話だけどそれだけではなく、それぞれの国が持っている現在進行系の問題でしょと話を広げている。その地点からもう一度この映画の物語を考えてみると、また違った視点になると思う。

じゃあ、この映画はなんなんだというと。
ここからは想像なんだけど、そもそも日本で許可が下りなくて撮れなかったことが「真実に即した」ところから離れる原因になったというのが大きいと思っている。例えば石川さん(当時のアシスタント、ユージンと一緒に水俣で暮らした)やアイリーンの現在の視点で物語を構成するという筋書きだってあり得たわけで、その時はジョニー・デップのパートを過去の物語として描くという視点だってあり得た。もしくは群像劇にすることもできた。
きっと、水俣の物語をそのまま描こうとすると群像劇になっただろう。

現代の水俣(もしくは似た場所)でロケができたらそのラインもあったはずです。でも許可が下りなかった。
ほんとは過去の罪に対して正当な反省を行っていれば、国家はこういう映画に協力ができる。正当な反省をおこなっていない国家というのが浮き彫りになるが、それは、制作過程でさえこの映画の物語の最後まで続く通奏低音と呼応していて、映画の制作過程そのものの中に映画の主題が含まれている点。そしてそれは映画の中に出てくる風景や登場人物が日本ではないと明らかな点。それらの問題も含めてこの映画の画面の中に描かれている。

セットやロケが外国で制作するとすると、やはり日本の風景とは齟齬が生まれる。費用もかさむ。
背景の建物が日本ではないし、登場する人々の多くは日本人ではない。主要登場人物を日本人(日系人)で固めても人物と風景をパンフォーカスで同一に撮ることはほとんどの場所でできない。浅めのフォーカスをメインで使い、群像劇から中心人物がメインの脚本にならざるを得ない。複数の人物を一人の造形に押し込め、キャラクターを整理し、物語の構造に手を入れる。

ユージーンでさえも複数のキャラクター、本来であれば何人もの人がでてくるキャラクターの役割をも背負わされている。
ややこしいことに、そのキャラクターはシーンによって別のキャラクターを割り当てられてしまっている。
ネガの買収や放火は当時の闘争の中であっただろう(想像できる)けど、直接ユージンに降り掛かったわけではない。
殴られたのは本当で、未だ本当の犯人は不明だ(ユージンは殴られた件に対してチッソを責めなかった)が、映画にあるように殴った本人がネガを持ってきた(そもそも放火もなかった)訳ではない。でも、その男がユージンに詫びるシーンとかはこの状況の複雑さを描いているし、映画の中でユージンが宿にした家の主人はチッソの運転手であるという設定に呼応するし、本当は複雑に絡みついているという当時の水俣闘争の反映が描かれている。

物語構造から考えてみると、アイリーンのキャラクターは言ってみれば、おとぎ話にあるような、ユージンを異界に誘う妖精であって、かつての勇者(この場合、老魔法使い?)ユージンは異界の中で葛藤しながら、クエストをやり遂げようとするが、傷つきぼろぼろになる。最後の最後で、異界の神秘を妖精の手助けによって見つける(見る)ことができ、その魔法が影響し、クエストの完成で物語は終わる(終わったはずなのにその後もというところも)。

ほら、ドラゴンクエストか、不思議の国のアリスか、ロード・オブ・ザ・リングとか、そういうストーリーになっているじゃないか。事実の推移ではなく、この神話的構造の方を選んだことは、物語構成としては充分ありえるし、構造としては強固になる。事実を淡々と描くより、より一般に膾炙する構造だし、どの国でも伝わるストーリーだ。

これは映画を制作する(完成させる)選択としてはまっとうに正当だ。

ドキュメンタリー映画ではない。劇映画だ。劇映画には物語が必要だ。物語はドキュメンタリー映画では届かない世界に届く。ここでは「真実の報道」が成立しないこの現実の世界の中でどのように、「真実」を伝えるかという点が一番大事で、それは物語だったり、寓話なのではないか、というのがこの映画の問いだ。

だってそうでしょ? この映画の中の描写がホントらしければらしいほど、一方で物語の骨子が浮かび上がってくる。
僕らはプライベート・ライアンとかシンドラーのリストがホントにそのままかっていうと、そんなことないのは承知の上で見てるわけで、なぜミナマタだけが、その承知の範囲外なのだ?
そんなの成り立たない。

ジョニー・デップが迫真の演技をすればするほど、ドン・キホーテ的にもなるし、作品を作り出す意志(や狂気)も感じさせる。映画の中でアイリーンとの仲が深まったところですべてを焼く火の画面が出てくるのだが、この火の場面はホントは引いた画面でタルコフスキーの距離で撮りたかったんだろうなと思えたけど、たぶん引いたら背景が見えてしまうからそれが最大だったんだろうななんて距離で、それでも充分詩的で狂的だ。

ほとんど最後のシーンの、大家の居間でアイリーンと肩を寄せながら箪笥か壁かにもたれてるカットのユージンのすべてのちからが抜けてしまったような様子は、妖精を手にしてしまった後の抜け殻のような男の様子のように見える。そして、それは同時に演劇の「舞台」を表すカットでもある。映画でこれは寓話ですよという種明かしをしているところで、見ている僕らは現実に戻る。

僕らの生きてる今の世界は「真実」が「真実」として届かない世界だ。フェイクニュースや横槍や足の引っ張りあいで、人が人として戦う時代ではなくなってしまった。
そんな時代に人々に伝えるのは寓話でしかない。

「ミナマタ」の写真集にはチッソの社長が水俣の人にちゃんと対峙しているカットが多くある。今はどうだ? 例えば原発訴訟団の前に東電社長が向き合ってきたか? 赤木ファイルの裁判には黒幕の人々は出てきたか? そんなことはない。今は法律や決まりごとや手続きで隠されて、本当に裁かれなければいけない出来事に対して、個人が戦うことができなくなってきている。
もちろん、当時も多分にそうだろう。この映画で描かれたように、LIFEに写真が掲載されたからチッソが折れたような簡単なことではなかっただろう。でも逆にいえば日本人だけであれがLIFEに掲載されなかったら、世界に情報は広まらかかったわけで(世界に広まらなければチッソは折れなかっただろうし)、語るのを投げ出してはいけないのだ。
そしてそれば同時に、真実を語る方法を探さなければならないということも指し示している。

どうだろう、そう考えてみたら、この映画全然違った物語が立ち上がってくるのではないだろうか?

さて。日本の写真界(というのがあるのであれば)が、いまやらなければならないのは、ちゃんと映画を見た人が次のステップとして、いろんな本に手を伸ばす、興味を持ってもらえるような道標を「英語」で作ることだと思う。映画は残る。今公開されていなくても、やがて公開、配信されるだろう。そのとき世界の人々が手に取れる、なにかが必要になる。

だから、もし「水俣の真実」を語りたければ、ガタガタ言ってるのではなく、映画に感謝しつつ、英語でブックガイドなり、映画のサブテキストになる本(もしくはサイト等)を作ることが、日本の写真会に預けられた責務だと思う。Meetooで公開が遅れているのもむしろ好機だ。時間ができたからやるのは今のうちだ。


「写真は小さな声に過ぎないが、ときたま、ほんのときたま一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことができる。」

写真集「ミナマタ」の最後にユージン・スミスの言葉が載っている。ジョニー・デップはこの言葉の写真を「映画」という言葉に置き換えてみたかったのかもしれない。
そんなことをこの映画を見ながら考えたのだった。

じゃあこの映画で出てくる「真実」とはなにか? それはきっと観た人は何となく分かるんじゃないかな、なんて思う。(だから観ろ。観て考えて、語ってほしい)

映画「ミナマタ」公式サイト
https://longride.jp/minamata/






※追記:ほら、ちゃーんと見てる人は見てる。
歴史vsハリウッド というサイト。
ちゃんと映画とほんとのことの差異を調べてる人がいるよ。
https://www.historyvshollywood.com/reelfaces/minamata/
これが必要。
こういうことを日本側から発信することが必要だと思う。

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