じゃんけんに勝って、海外脱出--1989年9月2日
成田エアポートレストハウスの部屋で、眠れぬ夜を過ごしつつ、朝を迎えてしまった。
いよいよ、じゃんけんの日。
私の相手は、東京大学のクイズ研の渡辺毅くん(当時)。
クイズ研大会の様相だったので、大学のクイズ研やそのOB同士の潰しあいの対戦がわんさか組まれていた。
大勢通過した東京大学のクイズ研の一人ということくらいにしかその時は頭になかったが、あとから、第5回高校生クイズの優勝者だったと知った。
それはともかく、のちのち、2012年だったか、ウルトラクイズ出場者らが一同に会する大同窓会で再会したのだが、名前も姿もがらりと変わっていて、これにはビックリ仰天、驚いた。時は人を変えてしまうのだ。
じゃんけんは、ストレートの三連勝。
じゃんけんに関しては、私には中学・高校時代を通じて、研究していた必勝法があった。経験値から出す順番が決まっているのだが、これがとにかく負けない。これより5年前の初めてウルトラクイズに挑戦した第8回大会でもストレートで勝っていて、負け知らずということを知ってもらえれば十分だろう。
優勝候補と目されるメンツの中では、名大の盟友の仲野と後にアタックの年間チャンピオン大会でパーフェクトするなど「クイズの女王」として活躍する青木が敗退した。
仲野には勝ってほしいという思いもあったが、同時に、強力なライバルでもあるし、負けてくれて、ありがとう、とも正直のところ思ったはずだ。第13回大会はドームでクイズ研メンバーばかりが残ったために、油断も隙もならない戦国大会になることは丸見えだったので、ここで何人もライバルが落ちてくれて、ホッとした気持ちがあった。
クイズに強い人はじゃんけんに負けないと言われていたから、きみたちは弱いんだよ、と大会が終わってから憎まれ口を叩いたものだが、仲野や青木の話を聞くと、このじゃんけんで負けると、ずっと尾を引いて立ち上がれなくなるらしい。お気の毒だ。
「らしい」でしかない私は幸い至極だった。
じゃんけんが終わると、飛行機に搭乗し、機内ペーパー。
大学時代には毎週の例会で三択ペーパークイズをこなしていたので、ここでは負けることはあり得ない。
ウルトラクイズの機内ペーパー400問と同じペースでこなす、毎週の100問三択のおかげで、私の体内にはペース配分を調整する時計が仕込まれていたも同様なまでになっていた。
当時の学生クイズ界では「三択の名大」と言われるほどで、年末の『マン・オブ・ザ・イヤー』でも予選のペーパーでは、私と仲野が常にペーパ-1位と2位をとって、シード席の常連になっていた。
だから、ここでの目標はズバリ機内1位を取ることだけだった。
だが、ON AIRでは長戸が機内1位。
一方で、私はと言えば、ついに発表はなかった。終わってから訊いてもこれだけははっきりしない。
ずっと私の中にもやもやとしたままで残っていた。だが、先日、ひょんなことからある方と出会い、話をうかがって二十数年の時間を飛び越え、ようやく溜飲を下げることになるとのだが、これは以前ツイッターで呟いたところ、いろいろと議論を呼んだので、ここでは述べない。
この日、同室は大阪の井端くんだった。
彼とはおない年で、共通の知人がいたので、彼女の話題で盛り上がった。
彼はフランス・インドスエズ銀行に勤める銀行マン1年生だったのだが、その彼の勤務先に私の大学時代の研究室のクラスメイトの女性がいたのだった。Mさんという女性は、とにかく見目麗しい女性で、それでいて控えめで、なんというか、『マドンナ』のような存在だった。どうしているのだろうか、あの憧れの『マドンナ』は?
井端くんとMさんの話で盛り上がった後、寝る前に翌日の泥んこクイズを思い浮かべたのだろう。
日記には翌日にかける意気込みで締めくくられていた。
習得困難な #ベトナム語 を巧みに操り交渉事を纏める「ベトナムの達人」#サイゴン 在住23年を経て2018年から #ハノイ 住まい。本業は #アパレル #生産#ベトナム の今を呟く。