京都御所
2年前に訪れた京都御所の話です。
概要
京都御所は、明治維新まで天皇のお住まい(内裏という)であり、桓武天皇が奈良の平城京より長岡京を経て、延暦13年(794)に平安京に都を移したのが始まりである。
平安京は南北約5.2㎞、東西約4.5㎞の方形で、中央の朱雀大路により左京と右京に分けられ、大小の道で碁盤の目のように区画されていた。平安京の大内裏(国家行事を行う施設や様々な役所があった区画)の中程に内裏があった。内裏は火災に遭うと、貴族の邸宅などが一時的に仮の内裏とされた。これを里内裏という。
現在の京都御所の場所は土御門東洞院殿といわれた里内裏の一つで、元弘元年(1331)に光厳天皇がここで即位をされて以降、明治2年(1869)に明治天皇が東京に移るまでの約500年間、天皇の住まいとして使用された。この間も幾度となく火災に遭い、その都度再建が行われ、当初は現在の敷地の半分以下であったが、豊臣秀吉や徳川幕府による造営により、敷地は次第に拡張された。
建築様式や全体構成は時代とともに変化していったが、天明8年(1788)の焼失による再建時には、江戸幕府の老中松平定信を総奉行とし、有職故実家の裏松固禅(光世)らの考証により、平安の古制に則った紫宸殿や清涼殿、その他の御殿が寛政2年(1790)に造営された。しかしこの内裏も嘉永7年(1854)に焼失し、翌安政2年(1855)には寛政年間の内裏がほぼそのままの形で再建された。これが現在の京都御所である。この御所は孝明天皇及び明治天皇の日々の生活や数々の宮中の年中行事に加え、幕末期の王政復古の大号令、小御所会議、五箇条の御誓文の発布、明治・大正・昭和の天皇の即位の礼が行われた歴史的な舞台となった場所でもある。
現在の京都御所は築地塀に囲まれた南北約450ⅿ、東西約250ⅿの方形で、面積は約11万ⅿ³である。敷地内では、古代以来の日本宮殿建築の歴史と文化が見られる。と同時に、回遊式庭園の御池庭、献上の石や灯篭を配した御内庭など、木々や花などの季節の変化も楽しめるものとなっている。
御車寄
高位の貴族などが、参内した際に儀式や天皇との対面のため使用した玄関。諸大夫の間や清涼殿、小御所などと廊下でつながっている。
諸大夫の間
正式な御用で参内した公家や将軍家の使者の控の間。身分に応じて部屋が決まっており、建物に向かって右に行くほど身分が高く、「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と襖の絵にちなんで呼ばれている。畳縁の色の違いや部屋の入り方にも身分の違いが反映されており、虎の間・鶴の間を使用する者は正式な玄関である御車寄から参入するが、桜の間を使用する者については、建物の左にある沓脱石から参入した。
紫宸殿
京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位の礼など重要な儀式がここで行われた。この建物は安政2年(1855)の造営であるが、伝統的な儀式を行う為平安時代の建築様式にて建てられている。慶応4年(1868)の「五箇条の御誓文」発布の舞台ともなり、明治、大正、昭和の三大の天皇の即位の礼は、この建物内で執り行われた。回廊に囲まれた白砂の庭を「南庭」といい、即位の礼の際にはこの庭に旗などが並び、殿上には皇族・諸大臣・外国使臣などが参列した。紫宸殿上から見て左側に「左近の桜」、右側に「右近の橘」が配されている。
建礼門
京都御所の南向きにある正門。かつては即位の礼など紫宸殿で行われる重要な儀式のときに開かれた。現在は、天皇陛下及び国賓が来られた際のみ使用される格式高い門である。
清涼殿
平安時代中期(10世紀ころ)から、天皇の日常のお住まいとして定着した御殿であり、政事・祭事などの重要な儀式もここで行われた。天正18年(1590)に、御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用された。この建物は安政2年(1855)の造営であるが、伝統的な儀式が行われるように平安時代中期の建築様式が用いられた建物となっている。
小御所
鎌倉時代以降建てられるようになった御殿で、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された。明治維新の際には、将軍に対する処置を定めた「小御所会議」が行われたことでも有名。上段・中段・下段の間3室の周りに広い板敷が付き、様々な儀式に対応できる実用的な建物であった。現在の建物は昭和29年に焼失したため、同33年に復元された。
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