6、あとがき

私の初めての短編集を読んで下さり、ありがとうございます。
あとがきなどと言うものを書くのは、そこそこ長く生きてきた人生の中で初めてです。

何を書けばよいのか、よく分かりませんが、
ここはひとつ、あとがきらしく
私が漫画を描くきっかけになった話を書いてみようと思います。

11歳の頃でしょうか。
姉の本箱にあった、萩尾望都さんの「11人いる!」という作品を読みました。
あまりの面白さとすばらしさに「私もこんな素敵な作品を描く漫画家になりたい!」
などと、うっかり思ってしまったのでした。

それまでの私は、将来の夢など特に持っていませんでした。
そして誰かに聞かれるたびに、親や周りの大人を喜ばせようと
「がっこうのせんせいになる」と
自分でもどこか腑に落ちないフレーズを口にしていたのです。

「漫画家になりたい」という夢は、私の腑にストンと落ちて
親にも周りの大人にも言えない秘密になりました。
だって、即座に反対されるでしょうし、無理だよと諭されるに決まってましたから。
ぺしゃんこにされないように、大事に胸の中で育てる必要があったのです。

そんな中、姉にだけは作品を読んでもらいました。
5歳も上で、手厳しい姉でしたが
「あんたって漫画家になるために生まれてきたような子だ。」と言ってくれたのです。

私はこの言葉をランタンの灯のようにして、つたない作品をノートに量産しましたが、
あっさりと壁にぶち当たります。
全然しっかりしたものが書けないのです。

何作か描けば、自然に萩尾望都さんのような素敵な作品が描けるかと思っていたのに。(ぎゃー!!)
子供というのは恐ろしいもので、当時の私はこれが才能の差か!とがっくり膝をつくのではなく
「きっと人生経験が足りないんだな、だって私、まだ13歳だし」
という、超モラトリアムな原因を捻出したのでした。


「経験を積んで大人になれば、きっと描ける」と。


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それから大人らしきものになるのに、ずいぶん時間がかかってしまいました。


最初に収録されている作品
「泣き虫とうさん」は、講談社の週刊雑誌モーニングでデビューした作品です。
私は48歳でした。


最後に収録されている作品「黒い鳥は夜に輝く」は、私が初めて受賞した思い出深い作品です。
大学を卒業して、バイトしながら描きました。
その間に挟まった3作も思い出深い作品ばかりです。


これらの作品を描いた頃、
自分が何をしていて、何を考えていたか
鮮明に思い出せます。


「経験を積んで大人になれば、きっと描ける」と、子供の頃に考えたのは
あまり間違ってはいなかったとは思います。けれど
今こうしてみると、漫画が私の経験の一部なんだと思うのです。


読んでいただいた方に心からの感謝をこめて。


またこの短編集を発行するにあたり
作品作りに協力してくれた当時の担当氏
表紙他をデザインしてくれたデザイナー氏
取次ぎをして下さった電書バトさん
ベタなど手伝ってくれた旦那にも
心からの感謝を込めて。

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ずっと出してみたかった短編集です!投稿時代のものがほとんどで、つたない作品もありますが、思い出深い作品集ができました。どうかお立ち寄りください。

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