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2020.07.18-19 気持ちの整理のために。

同い年の俳優が亡くなった。高校生の頃からずっと知っている俳優だ。
死に至った彼の苦悩を私には知る術もないし、想像をして苦しくなることしかできないが、私たちには明日が来る。
平坦なようなぜつぼうなような、明日がくる。
同い年で人生の一瞬を駆け抜けた人。
人はいきなり消えてしまうのだ。

沙穂は死にたいと思わないの?と聞かれたことがある。学生時代だ。
死にたいのに死ねない、と嗚咽しながら電話がかかってきたこともある。18歳のときだ。
友達が目の前で死にたいと叫んでいたこともある。死にたいと宿舎で腕を切った後輩もいた。
その時、私は傍観者として、時にはその気持ちをぶつけられる相手として彼女たちの横にいたが、私にはその気持ちがすべてわからなかった。
死にたいと思ったことは本当に一度だってない。
いつもどこか自分の今の時間を俯瞰しているから、いつかいまのことも自伝に書いたらよろしいやん、みたいな精神性が常にある。
18歳のとき死にたいと電話をかけてきた彼女には泣きじゃくる電話をただひたすら聞いて「自伝書こうよ、あいちゃん」と伝えた。電話をしながら私には彼女の深い絶望は背負えないと思ったことは覚えている。屋上から死にたい死ねないと電話をする相手が私だったこともただひたすらに怖かった。彼女は笑って電話を切って、少ししたら大学に復学して、その後結局辞めてしまって、いまはどこにいるかわからない。

本気で死にたいと思ったことは本当に一度だってないが、ただ、もうすぐ死ぬのではないかと思ったことはある。
数年前の春、なんだか特にやりたいこともやり切った気がして、大切な友達や大好きな先輩も周りにいて、とりわけ仕事に悩むこともなくて、全てが終わったという気持ちになった。
日々、死ぬかもしれないな、と気持ちを抱えていた。
死にたいでは決してない。こういうときに人は死ぬのかもな、という漠然とした気持ち。
それ以上でも以下でもない。
いつか死ぬんだなという気持ち。
その時期は春で、4月で気持ちが良い気候で、ああこんな感じなのかと毎日思っていた。
芥川のいうような、漠然とした不安の裏にあるのは同じく漠然と広がる幸せなのかもしれない。

同い年で、自分で死を選んだ俳優にいろんな気持ちを抱きながらも、私たちの平坦な日々は続いていく。
ただよく食べよく寝て、たまに人と話して、どうにかやり切っていこう。生きよう、生きてくれ、と願う。
いつかみんな、自伝を書こうね。


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