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獅子の味

揺れていた。揺れていたのが目の前の柳だったか私の心だったかは分からなかった。分からないことはもどかしくもあったが、とにかく揺れていたのであった。

「……お前さんもな、いい加減にいいところでやめなきゃならんよ」

私の前に立った赤髪の女がため息をついてからそんなことを言う。ふん、と私は鼻から息を吐いて、女の言葉に返事はしなかった。女は私が返事をしないのを最初から知っていたかのように、私の反応を待つでもなく続ける。

「何事にも丁度いいところってのがある。『過ぎたるは猶及ばざるが如し』さ。そうだろう?」

女の口調はいつもの如く説教じみていた。私は女の呆れたような表情を見るのが嫌になってそっと目を閉じる。そんな私の態度を見た女は、もう一度深いため息をついて、それからふと思い出したようにこう言った。

「…そうだお前さん、『獅子の味』の話はもう聞いているかい?」

◇ ◇ ◇

街の喧騒は、いつもより少し大きく聞こえた。赤髪の女は私の手を引いてそんな喧騒から抜け出し、にやりと笑って私の心を見透かしたように言う。

「いつも騒がしい街だけども、今日ばかりは無理もない。なんたって今日は『獅子の味』が来るってんだからね」

「獅子の味」というのは、旅する劇団の名である。劇を見た観客たちには厳しい緘口令が敷かれ、劇の内容が伝わってくることは決してないが、その名前と「とにかく面白い」ということだけは伝わってくる。風の噂と人間の好奇心というのは恐ろしいもので、いまや「獅子の味」はどの街でも話題の中心だった。ひとたび「獅子の味」が来る、となれば、その情報の真偽はさておいて街中お祭り騒ぎなのである。

赤髪の女は妙に上機嫌な口調でそんなことを私につらつらと解説しながら、先ほど立ち寄った古本屋で買った本を読んでいた。器用な女である。ヘミングウェイなるどうやら外人の作家の、『誰がために鐘は鳴る』という物々しい題がつけられた本だったが、あいにくと無学な私にはそれがどのような筋の本なのかさえはっきりしなかった。

その後も女は「獅子の味」について私に語る。曰く、劇団員は全員が北方の出身らしい。曰く、移動手段は牛の牽く車らしい。曰く、太陽が高いうちは公演をしないが、太陽が沈めば去ってしまうらしい。曰く、人語を解する鳥が劇団の長らしい。曰く…。

「……ま、ずいぶんと眉唾物の話もたくさんあるけれどね。しかしまあ、今日はこの話の真偽が全部分かるってわけさ」

女は一通り話し終えると同時に読んでいた本をぱたんと音を立てるようにして閉じた。私はその気取った仕草にため息をつく。

「さて、しかし『獅子の味』がいつ来るのやら分からない。どうだい、まだ日は高いんだし、通りの店で少し茶でも……」

女がそこまで言ったところで、街のはずれ、荒野の広がるほうから、唸るような、雷にも似た低い音が響いてきた。

「…何だろうね、この音は」

女も音に気付いたのか、音の鳴るほうへ一歩踏み出して目を細める。音はだんだんと大きくなって、それは言葉のようにも聞こえた。

酸の海ミッキー 酸の海ミッキー

音はどんどん大きくなる。そうして、それがいよいよ遠くには聞こえなくなったころ、私たちの目の前には大きな水の球のようなものが浮かんでいた。

酸の海ミッキー 酸の海ズン!ズン!

「……おいおい、なんだい、こりゃあ…」

女が焦ったような、困ったような声を漏らす。水の球は音の大きさに対応するかのようにどんどん大きくなり、さらに上のほうには小さな球が新しくふたつ生み出されていく。

酸の海 酸の海 酸の海 酸の海
ズン!ズン!ズン!ズン!ズンズンズンズンズンズンズンズン!

音は耐えられないほどに大きくなり、そして球はこちらへ向かってきた。緩慢な動きではあるが確実に近づいてきているそれは、私たちの前方に立っていた枯れ木を呑みこんだ。その瞬間、じゅっ、と不吉な音がして、枯れ木は跡形もなく消え去る。

「おい…おい、おい……冗談じゃないな」

女は、今度は焦りを隠そうともせずに吐き捨てた。音はまだ大きくなり、女の声をかき消そうとしているかのようだ。


酸の海ミッキー 酸の海ミッキー
酸の海ミッキー 酸の海ズン!ズン!


「なに突っ立ってるんだい、逃げるよっ!」

女は、ぼうっと球を見つめていた私の手を掴み、街の方へ走り出そうとする。だが、私の足は動かなかった。


酸の海 酸の海 酸の海 酸の海


「っ……お前さん、それが望みってわけかい」

私の目にはもはや何も見えてはいなかったし、私の耳にはもはや何も聞こえてはいなかった。それでも、球が近づいてくるのも、女が震えた声音でそんなことを言うのも、音がまた大きくなるのも、全てがはっきりと分かった。それはまさしく心の働きそのものであったと私は思う。


ズン!ズン!ズン!ズン!ズンズンズンズンズンズンズンズン!


繋いだ手を離さないままで、女が私の隣に立つ。程なくして私と女を球が呑みこんだ。じゅっ、という音が体を通して脳に響き、体中を熱が包み込むかのような感覚が私を襲う。

私の脳裏には、「獅子の味」という言葉が何故だか明瞭に浮かび上がっていた。ああ、これが獅子の味か。私はそのことを悟る。

揺れていた。揺れていたのが目の前で溶けていく女の赤髪だったか私の心だったかは分からなかった。そのようなことはどうでもよかった。ただ「獅子の味」が理解できた喜びのみが、私の心を満たしていた。

(おわり)