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SAYONARA

神戸の古ぼけたビルの3階。身長が180センチともう少しあったら引っかかってしまうほど小さなドアの先に、私の店はあります。
そこは、都会の喧騒をしばしの間忘れていただくための、静かな憩いの場所。私の自慢のレストランです。
さあ、今日もまた、お客様がやってきたようです…。

「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「二人なんだが、入れるかい」
ご来店してくださったのは、英国紳士然とした身なりの初老の男性と、金髪をショートカットにした若い女性でした。二人とも日本人には見えない顔立ちでしたが、男性の日本語は流暢そのものです。
「ええ、大丈夫ですよ。テーブル席へご案内します」
私は笑みを浮かべ、二人をテーブル席へ案内しようとしました。今日はこの二人以外にお客様もいらっしゃいませんでしたから、このレストランの一番いい席にご案内するつもりでした。しかし、そこで事件は起きたのです。

突然、バサバサという音が店内へ飛び込んできました。その正体はすぐに知れました。まだ閉じられていなかった入り口のドアから鳩が入ってきたのです。でも、どうして? この店があるのは都会のビルの3階で、鳥はおろか虫だってめったに入ってくることはありませんでした。
私の混乱をよそに、鳩は女性の肩に静かに止まります。よく見ればその鳩は、首に小さな手紙を提げていました。どうやら伝書鳩のようです。
女性はハッとした顔でその手紙を取り、私に小さく頭を下げてから広げて読み始めました。男性も心配そうに手紙を横から覗き込みます。手持ち無沙汰な私は、鳩をぼんやりと見つめることしかできませんでした。

「エリック……これ……」
女性が深刻な声音で男性に目線を送ります。エリック、と呼ばれた男性もまた、深刻な顔で頷いてから言いました。私は盗み聞きをする気はなかったのですが、その言葉がつい耳に入ってしまいました。

「ああ……ついに、『ゆるキャン△』のストーンヘンジ10日間耐久キャンプ編が始まるようだね」


「ゆるキャン△」のストーンヘンジ10日間耐久キャンプ編


彼らは少しの間逡巡の表情を見せた後、私の方へ向き直り頭を下げました。
「すまないが、私たちは急遽行かなくてはいけなくなった。また食べに来るから、今日は帰らせてもらいたい」
私は何も分かりませんでしたが、とりあえず頷きました。というか、まだお水すら出していないのですから、謝っていただくことなど何もありませんでした。
「ごめんなさいね……急がなくちゃいけないの」
女性もまた流暢な日本語でそう言いました。彼らは鳩と手紙を携え、開いたままの小さなドアから出ていきます。

「SAYONARA」
私が「またのご来店をお待ちしています」と言おうとしたちょうどその時、男性はそう言いました。
その発音は、あまりに英語的で、私の頭に強く刻み込まれました。
SAYONARA。
彼らはきっと、もう来ない。そんなことが、私には直感的に分かりました。しかしその予感は、どうしてか私の心に暖かなものをもたらしてくれました。

SAYONARA。
その一言だけで、きっと何もかも十分なのです。
私は「Closed」の看板をドアにかけ、自分のためにコーヒーを淹れ始めました。