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【資料―4.24教育闘争】朝連中央総本部文教部・活動報告書(1948年7月)

「第十五回中央委員会 文教部活動報告書」(在日本朝鮮人聯盟中央総本部、1948年7月26、27日)
※日本語訳。下線、太字は訳者による強調。判読不明な字は□。

〔略〕
二.教育編

가.教育事件の真相とその経過

1.教育問題の本質
 今回の在日朝鮮人学校問題が事件にまで発展し、全世界の世論を喚起し、これによって連合軍の日本占領以来、初めて軍事委員会が構成され、その経過が世界の神経を集中させることになった問題の本質をわれわれはまず知らなければならない。
 それは解放民族としての朝鮮人が日本で生長し、日帝奴隷教育によって朝鮮を知らず、朝鮮語を解得できていない朝鮮児童を真正な朝鮮児童に育成し、祖国建設に寄与するために、学校を経営し、朝鮮語で、朝鮮の言葉、わが歴史、われわれの民族、われわれの風習等々を教えているのに、日本政府が突然にわれわれの教育を禁圧し、「これからは日本の法律にしたがって日本語で日本の教育を教えなければならない」として、「そして朝鮮の教育が必要なら課外時間や、あるいは家庭で教えることは関係ない」、「もしこの命令に違反するなら学校を閉鎖し、学父兄を教育法によって処罰する」という一方的強要によって起きたものだ。
 天皇制日本帝国主義が祖国朝鮮を侵略した、搾取と奴隷化の長い歴史のなかで特筆しなければならない人類史上の罪悪は愚民政策だったのであり、同化政策だった。かれらは軍靴で朝鮮を踏みにじり、銃剣で言論、出版、結社の自由を剥奪し、歴史と伝統をなくそうとし、朝鮮的教育を禁圧し奴隷教育を強要することで、われわれの文化と美風を奪い、最後にはわれわれの言葉と朝鮮人の精神までを奪おうとしたのである。しかしこのような非人道的日本帝国主義者たちの暴圧と虐待のもとでわれわれの先烈たちは沸き上がる憤りと胸を裂くような悲しみを抑えていきながら、祖国の自由と文化を、そして独立を勝ち取るため、どれだけ闘ってきて、どれだけ血を流したか。まさに血にまみれた三十六年の歴史だった。このような先烈の正しい闘いと自由と平和を愛する民主主義世界人民の英雄的闘いと甚大な犠牲は、そのように暴悪だった圧制の鎖を断ち、解放の日一九四五年八月十五日をわれわれに許与してくれたのである。
 大きく息を吸う機会を得て、人間としての基本的権利を奪還したわれわれはやっと祖国建設の歴史的偉業に向けて巨大な第一歩を踏み出したのである。しかし建設の偉業はたやすい道ではなかった。日帝の侵略があまりにも〔数字不明〕、野獣のあがきがあまりにも広かったため〔数字不明〕。
 こうして大きな祖国の偉業は全同胞をそれぞれの部署に総決起させたところだったが、そのなかでも一刻を争う緊急の課業は民族文化の急速な建設だった。□文化は民族の生存を表現するのであり、文化なき民族は滅亡あるのみだ。しかも祖国を離れ、海外で母国を知らず、母国語を解得できない子どもを持つ同胞の関心がどこにあったかということは、ここで言う必要もないことだ。そのためわれわれは、敗戦日本の混乱した社会□と、日に逼迫していく経済生活の威脅の下で生きているにもかかわらず、あらゆる難関を克服していきながら、教育事業に総力を集中させ、三星霜〔三年〕を迎えることになったのである。
 ここに、日本政府が再び日本の教育を強要することに対してわれわれは、かれらの学校教育法を拒否したり、無視する特権を要求したわけではなかったし、解放民族としてのあまりに正当で当然の要求を提示し、問題の円満な解決に努力したのであった。すなわち、(1)教育用語は朝鮮語とする、(2)教科書は朝鮮人初等教材編集委員会で朝鮮児童のために編成し、GHQ、CIEの検閲を受けた教科書を使用する、(3)学校の管理経営は学校単位で構成された学校管理組合で行う、(4)日本語は正課として採用する。
 以上のようなわれわれの要求に対して日政は一片の誠意を見せないどころか、再び「在留朝鮮人は講和条約締結まで日本国籍を有する」という暴言を吐き、責任を逃避し、挑発で暴圧と虐殺の機会をうかがうだけだった。
 そのため問題は単純な学校教育の弾圧のみならず、民族文化の抹殺であり同時に、民族の滅亡を強制することだ。これはすなわち、人間の基本権利を剥奪しようとする反動支配の一貫した政策だ。全朝鮮同胞が祖国の国土で米ソ両軍の撤退を要求し、朝鮮人自身の手で統一民主政府を樹立する権利を主張することと、在日朝鮮同胞が解放された民族の自主教育を要求することと何らの差異はなく、これを抑圧する反動に過った点があるだろう。ここに、われわれは一歩を進め、問題が発生しなければならない日本の社会的条件と、関連した客観的要□を分析しなければならないだろう。
 第一に、芦田反動内閣は独占資本と結託し外資を導入し、買弁政策を国民に強要することで植民地化に突入している。
 芦田内閣の基本政策が外資導入にある以上、その政策遂行で支障のない国内条件確立することがかれらの使命だ。ここにかれらは労働法令改悪、軽犯罪法、政治資金調達法、警察力増強、海上保安庁、用紙割当庁などの反動法令と官僚機構を連続的に設置することと同時に東宝に対する弾圧等を強制している。再び祖国の現状を考案するときに、五月十日南朝鮮単独選挙が全民族の反対と抗争にもかかわらず、これを支配権力と暴力で強行しようとしたのである。
 以上の情勢を総合するとき、かれらの政策遂行にいわゆる支障になるということは、民主人民勢力の成長と拡大を示すものであり、この勢力が漸々と発展していく以上、反動勢力は人民勢力の前に屈服しなければならないだろう。このような事態を予想するときにかれらは恐怖を感じるのと同時に、合法と理性を忘れ、荒唐と最後のあがきでこれを抑圧しようとするのである。日本における朝鮮人運動が在留朝鮮人の問題が日本の完全な民主化でのみ円満に解決されるという路線で動いており、祖国民戦を支持し、南北統一民主人民共和国を熱望するところであり、したがって五一〇単選を強行し、祖国植民地を実現しようとする反動政策に反対し、その謀略を暴露粉砕する線で動いているところだ。そのため今回の教育問題においてわれわれの基本権利を強調し、民族的正当な要求のために平和的解決に努力した同胞に支配権力と暴力でこれを弾圧し、少数の朝鮮人指導者と共産主義者の政治的野望によって起きた策動だとしてその責任を転嫁するのと同時に、一歩踏み出して民主的組織を破壊し、民主勢力を抹殺しようとする最後のあがきを展開し、かれらの本質を世界人民の眼前で暴露するだろう。
 そのため今回の教育問題の本質は単純な教育弾圧にあるのではなく、教育問題を口実とした民主勢力の抹殺にあるのである。したがって、これは日本人自身の問題であり、世界平和に重大な関連をもつものだ。

나.在日本朝鮮人教〔ママ〕の現実
 
すでにみなさんがみなご存知のように朝鮮人教育問題が起きるや、新聞、あるいは、”ラジオ”を通じて報道されたのですが、結局問題は常に事件の結果だけをもって判断している状態です。のみならず、その判断ということが、民族の自主的な要求ということがまるで、日本の人民に、なにか特権というか?、治外法権を主張しているかのような印象を与えるための報道だったということ、それは、われわれの何よりも大きな意外でした。
 被抑圧民族として長い間、苦労してきたわれわれは当初からそうした考えは全くなかったし、また、秋毫も考えすらしませんでした。
 ところがこうした事実に、歪曲された報道が毎日のように新聞の一面に大きく載ると同時に朝鮮人の強盗、窃盗、殺人、あるいは”ヤミ”事件、これらが針小棒大に朝鮮人教育事件と同じ紙面に載るのでした。
 これは決して偶然ではなく、日本の支配階級が、日本の人民とわが朝鮮人民を離間させようとする、常套手段として現れた一つの現象だと言わざるを得ない。
 このような意識的な偏見、これによる報道で朝鮮人の教育問題が一方的に報道され、それが事実として認識されるなら、結局、これは民族離間、ひいては再び民族の優越感から、立き上がる異民族を軽蔑する過去の帝国主義的な民族政策が再生するのではいかという憂慮をわれわれは感じるところです。
 のみならずこのようなことは世界平和樹立に一つの大きな威脅であるという点でわれわれは今回の事件に対する正確な判断を下す意味で解放後の日本における朝鮮人教育の経由を簡単に紹介しようと思う。
 周知のように一九四五年八月十五日われわれが解放されるや強制徴兵、徴用、報告隊等で連れてこられた二百四十万の朝鮮人は一斉に帰国しようとする心算でみな準備で忙しかったことでしょう。船便であったり手荷物制限であったりといった条件に制限され、日が過ぎるやその間の本国情勢と、他の様々な事情によって現在約六十万の同胞が残留している□□だ。そしてわれわれは解放後、自発的に日本学校から出てきた児童のためにかれらが帰国するまでの勉強を暫定的に講習会のような形式で行っていたのだが、その後一般同胞たちの事情がすぐに帰国できないそうした状況で本格的に教育問題が顕になり、全力を集中させることになったのである。
 現在に至り、全ての学校は学校管理組合によって管理され、初等学校が約五百四十校、児童が約五万六千名、中学校が九校で生徒が三千三百余命、この他に短期青年学校三十余校、二千余名の学生が講習を受けている。
 ところが解放以後、われわれが教育事業を運営する上であらゆる面でぶつかる難点が少なくないことはわれわれがみな理解しているところだ。日本内のたった一つの学校も所有することができず、教員も全くいなかった他に、教科書一つ、われわれは持つことができなかった。先生であれ、児童であれ、われわれの母国語を正しく使うこともわからないこのような途方もない状況で、われわれはさる二年半の間、十五回の短期講習で四百名の教員を洋裁したし、現在は大阪、東京で師範学校を運営し、約二百名の学生が在学中だ。
 教科書は学年別で編纂されたものが九十二種類、部数で百万三千部が出版されている。このように多くの難関の下でわれわれが苦心労力で行ってきたが、一体日本政府はどのような態度をとってきたか?日本文部省は何一つ援助はおろか、〔数字不明〕同情するような言動さえ一つもなかったのだが、このようなことはすべてわれわれがわれわれ自身の手で遂行されてきたのだ。〔略〕

다.教育闘争経過
 一九四八年一月二十四日、文部省学校教育局長の名前で文部省大阪出張所長及び全国都道府県知事に「朝鮮人設立学校の取扱について」という主題の公文が発送された。
 この公文がある意図と計画の下で、またある情勢下で発せられるようになったという本質問題は既に言及したためここでは省略する。しかしこの内容を一言で表せば、「朝鮮人の二重的経済負担で朝鮮児童に日本の教育を実施せよ」ということだった。そしてその理由は、一九四六年十一月二十日附占領軍総司令部の発表にる「帰国の権利を放棄し日本に在留する朝鮮人は日本の法律に服従する」という点にあるとして、現在日本に在留している朝鮮人は当然に日本法律に服従しなければならなくなった、したがって朝鮮人が日本で経営している学校も、日本教育基本法及び学校教育法によって私立学校としてその管轄行政長官の認可を受け、教育内容は国定教科書と日本語で日本教育を実施しなければならないという一方的強要だった。

라.法廷闘争経〔ママ〕
〔略〕

【出典】
朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成〈戦後編〉第1巻』(不二出版、2000年)、319-327頁

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