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メディア密談・酔談に刺激されて:声を上げられなかった頃の事情

声を上げるようになったきっかけを書こうと思ったけど、その前に、声を上げられなかった頃の事情を見つめておくべきかなと思い、書いておく。

■表現ができなかった

悔しかったり腹が立った時、赤面して涙が勝手に出てくる。しゃべることができない。
家ではよくしゃべるのに外では人の目が怖くてなるべく目立たないように過ごす。
子どもの頃から20代半ばくらいまでは、私はそんな風だった。
今でこそ人前で歌ったり話したり、ブログで意見表明したりしちゃってるけど、元々は引っ込み思案・・・と言っても娘は信じてくれないが。
母は時々言う。「性格変わったよね」と。

密談でも少しお話した、小学生でチェルノブイリの原発事故の後の反原発(脱原発)デモに参加した際も、シュプレヒコールがとても苦手で、でも参加してるからには声出さなきゃいけないんだとまじめに考えて、落ち着かなかった。

でも理不尽に対する「怒り」はたくさん持っていた。
その表現ができなかった。
思えば、表現する方法を学ぶチャンスがなかった。
大人の言うことは納得できなくても黙って聞かないと怒られる昭和の時代。
まだ反発の表現を持っている子たちもいた頃だが、私はそういうのも選べずおとなしくしていた。

■「正解」へのこだわりと議論との相性

今考えれば、衝突は避けるべきもの、人前で怒りを表明するのはみっともないこと、と、子どもの頃からずっと刷り込まれてきた。
大人の何気ない一言、学校教育でのあるべき振舞い、テレビで言われていること、友達付き合いの中でも。

それから、「議論」は後味の悪いもの、というのも学校で学んだ。本当はあれは、やり方がまずかっただけだったと、今ならわかる。建設的な議論というものは、お互い敬意を持って建設的に話そうとしていれば可能なものなのに。そしてそれは、もちろん内容にもよるけれど、わくわくしながらやれることなのに。
少なくとも私が経験してきた学校教育はそういう感じ。

何より、教師が提示する正解を待ち、それを覚えることに価値があると刷り込まれていく教育では、子どもはいつでも先生の顔色を窺うし、複数の選択肢があったら「正しいもの」を選びたいと思うようになる。「どれが正しいんだろう?」と考えるようになる。
そして、無意識に、「正解以外は正しくない」と思い込むようにもなる。

そういう刷り込みと、「議論」は相性が悪い、と思う。
二手に分かれて議論するという授業があっても、いちいち自分の発言が正しいか間違っているか、先生にどうジャッジされるのかと考えながらなので、どうも「自分の意見を」「自分のことばで」語ることは身につかない。
残るのは「議論」というものへの嫌悪感のみ。
自分の意見を表明などしたら誰かと「議論」しなければいけなくなるかもしれない。そんな面倒は避けたいから意見表明などしないでおくのがよい、という思考回路となる。
それから、意見が通ることが勝ちで、通らないことは負けでみっともなくて恥ずかしいという思い込みもある。

思うに、教室で「どう思いますか」と教師から訊かれて子どもが答えるとき、間違っていた時のフォローが徹底的に間違っているのではないか。
教師がたどり着きたい正解に至るまでの道も、そうでない道も、学ぶ前の子どもの前には同じように開けている。
どちらに行くのも可能性としてはありうると受け止めてから、そしてどちらを選んだとしても、または迷って選べなかったとしても、「いい・悪い」で評価なんかすべきじゃないし、正解がなぜ正解なのか、他はどうして正解じゃないのか、丁寧に説明すべき。
そういったフォローがちゃんとしてたら、間違ったっていい、ひらめいたものをどんどん発表していこうという気持ちになるのでは。
「正解を選ばなければならない」というプレッシャーと思考回路は、学校を出てもずっと日本社会の中で続いていく。本当は誰も正解なんかわからないことがいっぱいあるのに、誰かに目上役の人に「それが正解」と言ってもらわないと安心できないようになってしまう。

そういうところが病的だと思う。
教育も社会の雰囲気も、壮大な「うさぎさん」養成機関ではないか。
「うさぎさん」は個人の資質ではない、と思う。

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