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ゲハルト・リヒター展

東京の国立近代美術館で2022年6月〜10月までやっていたゲハルト・リヒター展。予定を組むのが難しくて諦めていたところ、愛知県の豊田市美術館巡回展2022年10月15日〜2023年1月29日まで開催されるということで、11月頭に行ってきた。

多くの人が感想をあげているので、気にしなくてもいいかもしれないけれど、私は他の人の感想をあまり読まずにその場で体感して感想を持ちたかったので、同じように気にする人はここから先は読まないほうがいいかも。


入ってすぐに『グレイ』(グレイに塗りつぶされた作品)や、『鏡』(実際に鏡がかかっている)などがあり「あー、これは一筋縄ではいかないやつやな」と思った。この人が『鏡』をかけて「これが作品です」って言うには、それなりの地位とかロビー活動みたいなのに成功した人なんだろうな、と。

見てて楽しいというか、美しいと感じる作品も沢山ある。
ただ、どれも薄っすらとなにかがかかっていて、ダイレクトにそのものにアクセスできなくてもやもやする。それは頭の中のイメージを取って出した感じで、むしろリアルだと思った。

『カラーチャート』も楽しいし、『ストリップ』もその間にあった『8枚のガラス』もワクワクした。見ている自分がうろうろと動くことで作品の見え方がどんどん違ってくるし、自分もその作品の中にも入っている。

『カラーチャート』はドイツのケルン大聖堂のステンドグラスにもあって、そういえば、完成した年にちょうど行ったことを思い出した。
その当時はこれがリヒターだとは全く知らなかったけれど、ステンドグラスのことは覚えていたのをこの作品をみて思い出した。

『ストリップ』の前の『8枚のガラス』

さて、覚悟を決めて入った『ビルケナウ』の展示室。
なるべく他人の感想やテレビの特集も見たり聞いたりしないようにしていたけれど、やはりなんとなくわかっていたので、観るのに勇気がいった。
自分で課した前フリよりも、大体は「あ、なんだ、こんなもんかな?」という気持ちと「これは、時間が経つごとにヘビーだな」って言う気持ち。

京都から時間かけてわざわざ来たのだからしっかり観ようと、作品を見ている間、頭の中でずっと重低音で低い音が鳴っていて、無心だった。
ベースにしているという4点の写真が見れるはずもないのに凝視しちゃうけれど、やっぱり見えないんだよなーってなる。

15分くらいそこに佇んでいると、記念写真みたいに作品の前で作品と一緒に写真を撮る人、それを注意する人、男女のカップルで男性が女性に作品に関しての薀蓄をたれてたり、とにかく写真を撮るのに一生懸命な人、作品をちゃんと見てる人、などがいて、空間が興味深い。

ドイツのホロコーススト記念碑(虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑)の前で見た光景と似てる。

全体的に、「正直、よくわからん」っていうのがずーっとあった。
理解するっていうか感じることはたくさんあるけど、基本正解ってないからなぁと思いつつ、最初の「一筋縄ではいかない」っていう感じ。

思い出したのはパウル・クレー、ハンス・コパーとか。
ふと思い出しただけなのにふたりともドイツ出身。

『ビルケナウ』の後の作品は楽しんで制作しているというか、材料と遊びながら考え事をしながら作っている作品、その時間が作品に込められている。
込められてるっていうとなんか綺麗な感じだけど、残骸、にも思える。
アブストラクトペインティングっていう手法そのものがそういうことなのだ。だからこの絵の前でなにかを考えたり思ったり無になったりするのがいいのだろう。

そうなってくると、たくさん展示されているアブストラクトペインティングの前で、こりゃあ時間がいくらあっても足りないことになってくる。

そう気づいて、どっと疲れたので常設展に行ってみると、宮脇綾子さんのモチーフそのものに対して真摯で美しいアプリケの作品に癒やされたのだった。
家の近くにある美術館の展示だったら、なにか考えたりするときにわりと定期的に通いたい。

遠いから無理だけど。
あ、でも『ビルケナウ』はそんなしょっちゅう見たくないな。


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