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時代が変わると馬主・生産者・厩舎の立ち位置も変わっていく。

私が競馬を始めた頃は、いわゆる「先生」と呼ばれていた調教師の立場がとても強かった。馬産地とも繋がりが深く、実家や親戚が牧場を経営していた。セリなども小規模で、事業に成功した金持ちがステータスとして馬を所有する場合は、まず馬を預かってくれる調教師にお伺いを立てなければならない。

すると調教師は、馬産地に行ってどの馬が良いかと見て回る。もちろん調教師の親族の牧場はいいが、そうでない牧場の場合は、馬を売らなきゃ生活ができないので、馬主を連れて馬を見に来る調教師に営業することになる。交通費・宿泊費はもちろんあらゆる接待を施したうえでやっと馬が売れることとなる。そしてなお、その売り上げの中からキックバック、いわゆる袖の下が調教師に渡されるという話はザラにあったようだ。

厩舎に帰っても、代々師匠と弟子の縦社会で成り立っていたうまや社会が存在していた。厩舎スタッフや騎手はすべて調教師の弟子として入厩する。師弟関係、兄弟子・弟弟子といった具合で、それは厩舎間でも存在した。閉ざされた世界の為、非常に難解な人間関係が形成されていた時代だ。

函館大経、高橋孔照、林義和、山島久光、矢倉玉造、大野市太郎、小柴辰之助、鈴木甚吉など、これら日本における競馬界の原点といわれる人物を中心に、今もなお活躍躍している騎手・調教師は例外なくどこかのラインに属している。

武豊を見てみると、河内や父である武邦彦が兄弟子になり師匠は武田作十郎である。この系譜は美馬信次⇒尾形藤吉⇒菅野小次郎⇒飯田藤作⇒山島久光にさかのぼる大系図となっていた。また岡部幸雄は鈴木清という師匠を持ち、鈴木新太郎⇒柴田安冶⇒林義和につながり、松永幹夫は山本正司⇒武田文吾⇒鈴木甚吉ラインのエースだったという具合だ。

馬券を考えるうえでのファクターも、当然この人間関係のベースの上で予想を組み立てていた。ゆえに第67回日本ダービーにおいて、社台の同じ財布であった「武豊エアシャカール人気」の裏の「兄弟子河内のアグネスフライト」の勝ちも、それを知っていたならば容易に想像できたのだ。このように、すでに社台グループが実権を握っていたにもかかわらず、以前は日本ダービーさえも、いや頂点の日本ダービーだからこそ、ジョッキー界の功労者や引退間近の騎手会長、または「その時点で力のある一門」の弟子筋が持ち回りの順番で勝っていたように、当時の閉ざされたうまや社会を頂点に、馬主、生産者がいて、まだなお社台グループも古い態勢を立てていた時代もであったのだ。

しかし近代になるとその力関係は一変する。まず社台グループを中心とした生産者と馬主を兼任するいわゆる「オーナーブリーダー」が大資本をバックに力を付け始める。マーケットを海外にまで視野に入れたビジネスモデルが確立しつつあった。サンデーサイレンスで大成功を収めた社台グループやを筆頭に馬産地が大資本をバックに企業化してくる。優秀なスタッフを欧米の厩舎に研修に行かせたり、欧米から引き抜いたり、さらには欧米に生産牧場までも建設してきたのだ。いままでふんぞり返っていた調教師よりももっと高いレベルでの競走馬の育成が始まった。そこで出現したのが「外厩」というわけだ。その時代の流れに乗れなかったシンボリ、メジロ、ダイタク、早田牧場、サクラなどが縮小・淘汰を余儀なくされた。

そうして、良い繁殖牝馬を購入して、欧米の良血の種牡馬と交配して、どんどん生産してどんどん育成して、早くて強い馬をつくり世界に挑戦するというベクトルが主流となり、さらに良血の内国産の種牡馬もふやして、いわゆる「種牡馬ビジネス」も展開してきた。バブル経済も手伝ってフサイチ冠の関口氏のような馬主も増えそれは一気に加速していった。そして時代が変わったことで、馬産地やうまや社会でふんぞり返っていた調教師たちは、自分の厩舎に馬を預けてもらうよう、逆に大企業の大馬主や社台グループにお伺いを立てるようになった。そしてオーナーサイドから騎手要請があったり、出走レースまでをも決められてしまうようになる。

さらには直前まで外厩で海外で学んだ優秀なスタッフが仕上げるので、厩舎ではトラックマンやマスコミ用の時計とか追いきり、コメントしかできなくなった。将来的には外厩オンリーになるのではないだろうか?

しかし、こういう利権がらみの体制の崩壊や、レベルが上がることによっての淘汰があってこそ、日本の競馬が世界に通用するようになったのではないだろうか?次回は、「クラブ馬」の隆盛についてというテーマで書いてみよう。


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