エルンスト・ユンガー『内的体験としての戦闘』序文試し読み

 時折、新たなる星辰が精神の地平上で光を放ち、気骨ある全ての者の目を射る。それはかつて東方の王たちに告げられたのと同じ預言であり▼[1]、世界を変貌させる嵐の前触れである。そして周囲の星々は灼熱の炎で燃え尽き、偶像は土塊となって崩れ落ち、鋳造された形姿はなべて幾千の溶鉱炉で鎔かし直され、新たな価値が注ぎ込まれる。

 こうした時代のうねりが、四方から我々を囲繞いにょうする。脳、社会、国家、神、藝術、エロス、道徳。これらは崩壊し、顫動した末に、再誕するのだろうか。光景はいまだ目まぐるしく揺らぎ、原子はなおも大都市という沸騰した大釜のなかで渦巻く。しかし、この嵐さえ霧消し、灼熱の嵐も秩序へと冷却されるだろう。いつか、あらゆる狂乱は陰鬱な石壁にぶつかって砕け散り、鋼鉄の拳をもって軛に繋がれる。

 なぜ我らの時代は斯くも破壊的でありながら創造的な力に満ちているのか。なぜ、今まさしく、この力が斯くも恐るべき契りを内奥に宿しているのだろうか。大勢がこの熱狂のもとで死に絶えようとも、その炎が同時に、無数の蒸留器で未来と奇蹟を調合するからだ。万巻の預言書とは裏腹に、街道を歩いても、新聞記事に目を通してもこの力は見られる。

 人類とその時代を今ある姿へと作り上げたもの、それは戦争なのだ。嘗て、我々のように、世界の闘技場に足を踏み入れ、自分達の時代に横溢する力を巡って争い合う世代はなかった。それは、この戦争という斯くも強大な暗黒の門をくぐり、 元の明るい生活へと帰還した世代が誰一人とていなかったからだ。そして、我々はどうしようとも否定できない。戦争、これが万物の父であることを▼[2]、我々の父でもあることを。そう、戦争はハンマーで鍛え、鑿で彫り上げ、硬くすることで我々を今ある姿にしたのだ。そして、揺れ動く生命の車輪が我々の内で廻り続ける限り、戦争はその車輪の主軸となるだろう。彼が我々に戦闘カンプフを教練したおかげで、我々はあたう限り兵士であり続けるだろう。彼が滅び去ったのは事実だ、戦場は汚名を着せられ、荒れ果て、拷問部屋や絞首台のように惨憺たる有様だが、彼の精神は忠実なしもべたちに受け継がれた。そして彼らはあるじへの奉仕を決して止めない。もし戦争が我々の中にあるのならば、彼はどこにでも存在する。世界を形作る我々は、最も創造的な鑑賞者でいる他にないのだから。聞こえないのか、無数の都市で響く彼の咆哮が。我々の周りで戦いが繰り広げられた当時のように、暗雲垂れ込める周囲で響く雷鳴が。見えないのか、我々の眼球悉皆から赫灼と燃え立たつ彼の炎が。彼は時おり眠りに落ちるが、大地が揺れ動けば、彼は煮え滾る活火山の全てから噴出する。

 戦争は我々の父であるばかりでなく、息子でもある。我々が彼を生み、彼もまた我々を生んだのだ。我々はハンマーで鍛え込まれ、鑿で彫り上げられた者であると同時に、鑿とハンマーを振るって鋼鉄を鍛造する鍛冶師でもあり、火花を散らす鋼鉄でもあり、本能の赴くままにとる行為に殉ずる者でもある。

 仄かに明るい広場や地下通路で、水光の眩いカフェで、大通りで、多彩な色を発する光のスペクトルの中で、玉虫色のリキュールが所狭しと並べられた酒場で、会議卓で、最新の流行を、毎時ごとのニュースを、解決される日々の問題を、毎週発生する事件を、地上を騒々しくする不平不満を話しながら、仕事と娯楽で身を粉にしていた昔の人々よりも、我々は紡がれてきた文化という母胎に包まれながら昔よりも親密に共生している。我々は律法学者(ラビ)アキバ・ベン▼[3]風の笑みを湛え、工学的にはまだ何かを造り出しそうな技術クンストの終焉に立ち会い、世界の謎を解き明かしたか、解決のための最善の手段を取っているのだと信じていた。ついに結晶点へ達したようだ、超人▼[4]はすぐそこまで来たのだ。

 ゆえに我々は超人のように生き、それを誇りとしていた。物質に陶酔した時代の息子たる我々にとって、進歩という概念は完璧で、機械とは神のごとき鍵であり、望遠鏡と顕微鏡とは知識という我々の器官であった。だが艶やかな身なりをしていても、奇術師じみた衣服で身を装っても、我々は森や草原に住む人類のように裸で生身のままだった。

 それが明らかになったのは、戦争がヨーロッパの共同体を引き裂いたときであり、たびたび嘲笑の的となっていた国旗とシンボルを掲げ、古代からの因縁によって互いに争い合ったときだ。真なる人間は、さんざめく狂宴のなかで己の喪失したものの全てを埋め合わせた。社会と法が余りにも長く抑えつけてきた彼の本能は再び、ただ一つの神聖物に、最後の理性になった。そして、人間の頭脳が数世紀にも亙りその形態をより洗練させてきた全ては、拳に無尽蔵の力を込めることだけに奉仕した。

 それは今や、真夜中に通り抜ける森林のようにくろく不気味に我々の背後にいる。そこで息が荒くならぬ者などいまい。我々は潜水夫のように体験へと身を投じては、変わり果てた姿で戻ってきた。

 奈落の底で何が起こっていたのか。戦争の担い手にして被造物、人類。その生命を戦争へと捧げざるをえず、戦争によって新しい小径へと、新しい目的地へと放り込まれたもの。我々という存在は戦争における何だったのか。我々にとって戦争とは何だったのか。今日、大勢がこの疑問に答えようとしている。この書物もまた、その問題に取り組むものである。


訳注

▼1 マタイ伝に登場する東方の三博士と、キリストの生誕を彼らに預言したベツレヘムの星を指す。三博士は福音書では賢者を意味するマギとして記述される一方、詩篇の第 七十二頌ではタルシシ、シバ、セバの三国の王がキリストに贈り物をすることから、彼らを王と解釈する見方も広まった。ドイツではHeilige Drei Könige(三聖王)という呼び方が一般的である。
▼2 ヘラクレイトスが残した「戦いは万物の父であり、万物の王である」(Polemos pantōn men patēr esti, pantōn de basileus)を準えている。
▼3 Akiva ben Yosef (50年 - 135年頃)。聖書釈義学者、神秘思想家でもあり、ユダヤ法の体系化、トーラーの伝承の整理などの功績で知られ、最も高名なユダヤ神秘主義者の一人に数えられる。タルムードのハギガー篇では、楽園(パルデス)に三人の賢者と共に入り、三人が発狂死を遂げるなか、アキバ・ベンだけは無事に無事に戻ってきたという逸話が語られており、宗教的な観想や思索に耽りすぎることへの戒めとして解釈されている。
▼4 Übermensch ニーチェが提唱した新しい人類の概念であり、自己の内に価値基準を確立している者を指す。

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