【胎内のような宇宙空間だった〜聖林寺】

【胎内のような宇宙空間だった〜聖林寺】

先日、みっちゃん こと、Mitsuko nakataniさんに連れていってもらった聖林寺さん。

わたしが今、仮吉方住まいをしているところから距離は近いのだけど、車のないわたしにはハードルが高いところ。初めて訪れた。

何年か前に、奈良国立博物館で、聖林寺さんのスター的存在の「国宝十一面観世音像」に初御目文字して、口をあんぐり空ける勢いで、そのお姿をなんどもなんども周回して観た記憶がある。その背後に三輪山の穏やかで大きな存在を感じたことが思い出される。

「いつか、もういちどお会いしたいなぁ」
と思っていたらチャンスが巡ってきた。

聖林寺さんに着くと眼前に拡がる緑のふもとの景色。
急な坂道をさらに登っていく。

御本尊の子安延命地蔵さんにご挨拶したあと、幾段もの階段を上がって、十一面観世音さんのおられるお堂に辿り着く。

新しく建て替えられたお堂のメタリックな重い扉を開ける。その瞬間、異空間に切り替わる。

十一面観世音さんがおられる壇上の空間は、地上からふわっと浮く心地がして、まるで天上界に誘われるかのようだ。

後ろ姿の腰の括れ具合の優美さ艶かしさ。そして右の手のしなりや指の美しさに見惚れる。

そもそも十一面観世音は、戦いのステージである「阿修羅界」の苦しみから、わたしたちを助け出す担当の觀音さまだ。

十一面(お顔が十一面)あるのも

「あなたの見ていることが絶対に正しいとは限らないんだよ」

「もっと、ほかの見方もあるんだよ」

と、「あらゆるものの見方がある」という視点を示しているように思える。

つい自分の出しさに固執したり、そうすることで自分を守ろうとしたりする、わたしたちの頑なな思考(その後ろにある感情も)をすっと緩めてくれる。

十一面観世音さんのおられる(まるで胎内のような)空間に身を置いていると、余分な力が抜けて、わたしの身体に入り込んでいた左右(女性性&男性性)の対立がほどけていくような感じがした。わたしの内側で起こっている戦い(それを外の世界に映し出してしまう)をバランスを取ることで「どちらもありなんだ」と許容していく心地になった。

いつまでもここにいたいなぁと思ったけれど
「心地よい胎内」から出て、わたしのリアルを生きなくちゃならない。

だけど「戻って来れる」と思える場所がリアルにあるというのは、心の拠り所になる気がする。

ここの御本尊の子安地蔵菩薩さん、この方もなんともノンビリした佇まいで(ゆるキャラのような?)わたしたちの魂の旅を、
「まぁまぁゆっくりいったらええんちゃいますか?」とどっしりサポートしてくれている感じがした。

戦いに死んでいく者たちがいる一方で、命を産み育む存在がある。その狭間の苦しみはどう解けていくのだろう?

戦いに明け暮れているわたしたちの意識が
「あれ?わたしら、なにやってたんやろ?」
くらいに、ゆるむ感じがするところだった。


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