レビュー論争についてあれこれ

 今回のレビュー論争(というか「キャットファイト」)において大人げないのはむしろ伊藤比呂美のほうで、10000を超えるフォロワーの援護射撃を利用してまで山下晴代を攻撃するほどのことだったのか、ましてAmazonレビューを削除させることだったのか、皆目わからない。もちろん山下の、ほとんど文章の体をなしているとはいえない、これで文芸誌に4作も小説が掲載されたとはおもえないほどはなはだ不可解な(ブログに掲載される「詩」と称された思考の垂れ流しなど目を覆いたくなる代物だ)、文意が汲みとれないことも茶飯なあのレビューの数々をフォローしようとはおもわないが、本人がどこにどんな感想文を載せようと、基本的には本人の自由であり、それを読んだ誰かれから批判されたり無視されるのもそれぞれの自由だ。これが匿名であろうがそうでなかろうが関係はない。一度公刊されたものはあらゆる反応を甘んじてうけなければならない。どんな酷評であろうと、だ。そのかわりにどのような言説であろうと封殺されない保証を、わたしたちは等しく有している。伊藤の醜さは、山下のレビューを、昨今世間をにぎわわせている、ネット上でかわされている匿名での誹謗中傷をひきあいにだして批難したことにあり、すでに半世紀近いキャリアを持ち、大学教員も勤める「権威」である伊藤が、さらにTwitterで気ままに山下を批難しておきながら、圧倒的多数の誹謗中傷になす術もなく苦しんで亡くなった木村花への世間の同情をうまく利用し、山下の発言を封じこめようとまでしているかのように映ってしまえば、それは卑怯だとしかいえない。伊藤はわざわざTwitterで応戦しなくとも、いくらでもそれをネタにエッセーや詩を書く場所を持っているのだし、そうすべきだったのではないか。安全圏から自由に発言できる場所と地位を有する伊藤が、対等なそれらを享受できるのではない山下を、テラスハウスの例を持ちだして、そうまではいっていないかもしれないが、結果的に「死の恐怖を覚えました」といってしまえるのは、厚顔無恥のほかのなにものでもない。
 ところでTwitter等でときどき詩などをこきおろすと、誹謗中傷あつかいされるわたしだが(文月悠光がぼやくのと違い、わたしはしっかり読んで批判しているし、このひとはどんな話題であろうとも自分語りをしはじめるでしゃばりなのは昔から変わらない。よほど目だってちやほやされたいのだろう)、わたしへの厳しい批判はこれまでに一度もうけたことがないのはなぜか(ある青年による「漢検一級を持っている僕にも読めない漢字をつかっている必然性がわからない」などといった見当違いな意見が飛んでいたことはあるが。いや、あなたにどの漢字が読めて読めないかを基準に詩を書いているわけではありませんからね、すみません、プライドを傷つけてしまって)。それだけ読まれていないのだといえばそれまでだが、酷評でもなんでもされてみたいものである。

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