セクハラあれこれ

 5年近くまえのことだろうか、ある授賞パーティーで、ひとまわり以上年長のとある詩人に、「サクラコさんは髪がきれいですね」とふいに頭を撫でられた。突然のことだったので驚いて身震いしそうになったが、けれどもそうした態度に表すのも失礼だし、相手を不快にさせてしまってはいけないと平然を装いつつ感謝のことばを述べたとおもうが、それも緊張というか、からだが硬直してしまってぎこちないものになった。この体験をTwitterなどで#MeTooと末尾に記して告発することもできるだろう。なにせ、心を許しているわけでもない間柄の他者に髪を触られることは、その行為自体に他意はなくとも、不快だからだ。

 これに近いことはさまざまなところで起きる。たとえば友人や知人と食事をしていて、「手がきれいだね」と手の甲や腕を撫でられる。あるいは、わたしのふくよかな腹部を見てそういう衝動におもわず駆られてしまうのか、お腹を撫でられる。

 このようなおもいがけずに起こる接触を不快だと感じるほうが悪いのか。

 法務省が作成した冊子によれば、男女雇用機会均等法でセクシュアル・ハラスメントは「職場において、労働者の意に反する性的な言動が行われ、それを拒否したり抵抗したりすることによって解雇、降格、減給などの不利益を受けることや、性的な言動が行われることで職場の環境が不快なものとなったため、労働者の能力の発揮に重大な悪影響が生じること」と定義されていると記している。とするとセクハラは職場等以外では起こらないことに、いちおうはなる。

 しかし世間では職場や学校ではない場所での、それに類似する行為の告発で溢れかえっている。もはやセクハラはその定義がむやみに拡大されたり曖昧にされたりしているように映るが、被害者が味わった損害ばかりを重視するあまりか、その線びきを明確にしておこうという動きはあまり見かけない。

 さらにセクハラは異性間であろうと、同性間であろうと、異性愛者によっても、同性愛者によっても、両性愛者によっても起きる。上述した例でわたしに触れてきたひとはみな女性だ。もしも相手が男性であれば少しはその不快さを表明しやすかっただろうが、女性同士の会話のなかで起こったこととなると、途端にそれはうけ手の自意識過剰だとの疑問を呈されるようにおもわれて、どうも声をあげにくい。

 他者とのなにげないやりとりのなかで起こるこうした身体的な接触をセクハラだと断じることはできるのか。むろんむつかしいのだろうが、それではわたしが味わった不快さはそのまま堪えるべきなのか。

 相手にしてみればたんにわたしを褒めただけにすぎず、性的なニュアンスなど少しもなかったのだろう。嫌がらせでもないかもしれない。ならばこれはたんなるいき違いだということになる。

 もしもこれが男女間で起こっていればセクハラ認定しやすかったのだろうけれど、接触した側にそういう意図があろうがなかろうが、うけ手がそうと感じたら性的な嫌がらせと見做されるのは、なんだか不可解に感じられる。しかもおなじことをしても、する側の性別や、された側の性別によってセクハラになったりならなかったりするのは、どういう理由によるのだろうか。

 セクハラによるものであろうとなかろうと、こうした不快さを味わうことなく生きることはできない。そしてそのほとんどを、些細なできごととして処理するよりない。不快さを盾に相手を責めたてることでなにが得られるのかははなはだ疑問だし、職場や学校でなければ、その後の人間関係に齟齬が生じることもそうはないだろう。

 それでもセクハラは拡大解釈されつづける一方で、どんな些細な言動もそれとして断罪される傾向にあるように見える。近いうちにハグや握手ですらそうと認定されることもあるかもしれない。あるいはあいさつのことばひとつもそう見做されるかもしれない。

 わたしたちは好まない接触を拒みつづける。そのはてに起こるのはコミュニケーション自体が禁止されたのちの孤立だろうが、もしもわたしたちにその覚悟があるのなら、それもいいのかもしれない。


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