@Arisa_Iwakawaさんに嚙みついてみた

 いまになって怒りがこみあげてきたので書いておく。昨日、@Arisa_Iwakawa氏の「私は「クィア文学」という言葉をよく使うが〜」というツイートにクソリプを送りつけたわけだが、わたしの主張としては「「クィア文学」なる呼称は不要なラベリングにすぎない」というもので、それについてのツイートの応酬がつづいた。
 そのなかでわたしは「早稲田文学女性号」でレズビアンもトランスジェンダーもあつかわれてはいなかったことを嘆いたが、氏は「「早稲田文学女性号」に、トランスジェンダーの女性はいませんでしたか? なぜそういえるのですか? また、トランスジェンダーがいないということによってアウティングを引き起こしませんか? この点、教えてください。いなかったのですね。そう断言なさったわけですね。」と、まるで少しの失言であっても見逃さないといった、鬼の首でもとったかのような語気の強い口調でそう問うてきたので、その勢いに一気に気圧された小心者のわたしは、また書き手にレズビアンやトランスジェンダーがいなかったと断言したわけでもなかったので、あらためてリプライを送った。
 しかしそもそもがきわめて性差別的な姿勢のもとで編集された「女性号」の80人ほどの執筆陣に、レズビアンやトランスジェンダーがいたかどうかはたしかめようのないことだし、むろんそうする必要もない。ただし女性のみしか執筆できない本号においては、自ずとそれぞれの書き手が女性であることだけは特定できるし断言もできるのだろう。けれども氏が書くように、「トランスジェンダーがいないということによってアウティングを引き起こ」すかどうかについては一考したい。少なくともレズビアンやトランスジェンダーを公表している作家や批評家はいるのだから、「女性号」はそうした書き手を迎えるべきだった。「女性号」にもしもカミングアウトしてはいないけれど、そうしたセクシュアリティの書き手がいたとしても、記事を読めばわかる通りに、とりあえずは女性の書き手をあつめただけの雑多な特集のなかでは、申し訳程度にしか触れられてはいないので、実際にどうだったかは別にしても、「女性号」を読んで、レズビアンもトランスジェンダーもいないと嘆くのも無理はないのではないか。そして読者の多くがシスヘテロ女性のみによって書かれた特集号だと誤認したとしても、それも無理はないだろう。
 そしてわたしの発言がアウティングになるかどうかについては、執筆陣に当事者がいたかどうかすらたしかめようがないことに乗じて、たとえ当事者がいなかったとしても、それを確認することが不可能であることから、「トランスジェンダーがいないということはアウティングを引き起こ」すといった詭弁がまかりとおってしまうのはなかなか難儀な情況で、そうした事態を防ぐためにこそ、執筆陣に当事者をくわえるべきだったのだ。またここの執筆陣を名指して「トランスジェンダーではない」と断言するわけでもないので、「トランスジェンダーがいなかった」と書くことによりアウティングになるとするのはいささか暴論ではないか。
 氏はまた「私は、@tonookamarinaさんがご主張するのと同じ理由で、「トランスジェンダー」という言葉で規定してはいませんが」とも書くので、「トランスジェンダー」なる呼称自体がラベリングであることを認識していることからすれば、当然のように、「女性」も「男性」もラベリングになる。わたしは再三「女性とは誰のことを指すのか」と問うてきたし、その答えはむろん「男性ではないひと」ではない。古典主義的なふたつの性別をくまなく点検し、解体したあとでなければ、個々のセクシュアリティに対応することはできないし、それどころか、ある傾向のセクシュアリティをまとめる呼称をあたえることこそがラベリングにほかならないので、だとするならば性別なんていらないし、わたし個人としては心底そうおもうのだけれども、生まれながらに女性であることが自明で、それに安住できたひとびとにとっては、性別なんていらないなどという主張は、自身の安全圏を脅かす危険思想でしかないのだろう。また発売から4日で売り切れた「文藝シスターフッド特集号」において、「女性号」とおなじようにまた、「レズビアンもトランスジェンダーもいな」いかどうかは、いま手許にないので確認しようがないが、「女性同士の連帯」にわたしのようなものがくわわれるのかどうかはひきつづき問うていきたい。けれどわたしにとっての仮想敵はかならずしも「男性」ではないし、「シスヘテロ女性」と利害が一致するとも限らない。「シスヘテロ女性」が「男性」を仮想敵にしたてあげているかも、個々で異なるだろうから、そこもわからない。けれど「女性号」が「男性」を「排除」したことからすれば、そういったむきもあるのだろう、程度だ。
 ところで氏はわたしのいくつかの質問をのらりくらりとかわして答えなかったが、それはおそらくは講師としてのお立場からいそがしく、いちいちどこの馬の骨ともわからぬわたしの問いに答えるだけの余裕がなかったのだろうと拝察する。わたしはといえば、氏も執筆したことのある「現代詩手帖」と「すばる」でそれぞれ一回ずつ、「女性号」と「杉田水脈」への異議申したてをしただけの市井のトランスジェンダーにすぎないので、そのような立場のものへのきめ細やかな対応を学者に望むのは身を弁えろと自省すべきかもしれない。ほんらいならどこか公開の場で、「トランス差別に反対」する氏に――どうも「いなかったのですね。断言なさったわけですね」と畳みかけられて怯んだ身からすれば、それは抑圧ではないのかとこぼしたくもなるが――、素朴な疑問をぶつけてみたいが、わたしのようなものに発言権をあたえてくれそうな媒体などありはしないだろう。泣きつけそうなところはといえば「現代詩手帖」くらいだが、このところ腐してばかりいるし、「現代詩手帖」なんかでそんなことをやっても意味がない。「現代詩手帖」で「女性号」批判を書いた当時は少ないながらも反応があったが、「すばる」に杉田水脈批判を書いたときにはそれもなかった。しょせんはそういうことなのだ。

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