停止まで

An den Wassern zu Babel saßen wir und weinten...


 なにかの象徴なのではないオルガンのある一音がかすかに聴こえている。どこかの廃教会か忘れさられた巨大な空洞の奥から、弱い風の薄い表面に載せられて、それはやってきている。それ以外にはなにも、風の音すらも届かない砂利に覆われた大地に腹ばって。


 雀の眼ほどの大きさのカメラのレンズを通して、いくつもの無粋な眼球がのぞきこんでいるある朝のプラットフォームにたち、貌のない少女は雑踏の彼方から訪れるはずの筐体、または軽やかにその場の情景を運びさる器官の到来を待ち望んでいた。もう何日も、何週間も、何年も、ひょっとすると生まれたときからずっと、それを待ちつづけていたのかもしれない。目のまえをゆき過ぎるたびごとに吸いこまれそうになりながらも、それをさきのばしにしてきた日々が膨れあがり、もうごまかしきれないくらいに、目をそらしてもそれ自体の気配に足どめされて、どこへもいかれなくなってしまっていたのだ。


 多数の影が、数えきれないほどの曖昧な影が駅へむかってつらなっている。ひとびとは馬にまたがり、あるいは籠を背負い、足の萎えたひとを背負い、乳呑み児を抱えて、一冊の書物を携えて、めいめいに、駅頭へと集まってくる。そのなかに少女はいたはずだ。鞭うたれた瘦せたからだをひきずって、こまごました街衢の涯てから、何度でもあらわれた。その表情はつねに汚れた綿布でぬぐわれるか覆い隠されるかしていたために、たとえ無数の傷が縦横に走っていようとも、誰もそうとは気づかない。乾いた皮膚に、翅を息めようとやってきた飢えた蠅がとまっている。錆びた鉄のような色をした吾亦紅の花穂をふたつ、禿びた頭につけている。


 寒いのか、それとも暑いのかもわからないが、その日、ひとびとの両耳から両眼を捕らえようとしたものの予兆に冷たい汗を噴きださせている。線路をわたりそこねた草龜が割れた甲羅のしたを陽に曝している。二羽の鴉がまっ赤な口腔をのぞかせて枕木から枕木へと飛び跳ねている。線路をまたぐ幹線道路をひっきりなしに通り過ぎていく自動車の駆動音が雑踏にまぎれこんでいる。トラックの幌を被せた荷台から一体の首のないマネキンが転がり落ちる。マネキンの左腕がはずれて、道路の隅へと投げ飛ばされる。五本の指は、それぞれ好きな角度を保持している。横転したべつのトラックからはまだ若くて元気な豚が列をつくって逆走しはじめる。湿った鼻のさきに泥をつけて、豚はまあたらしい大地を探しに旅にでる。毛もまばらな豚の背に、綿毛のついたなにかの種子が、乾いたあたりの空気によって運ばれてくる。豚の啼く声が道をとりかこむ建物で暮らすひとびとの耳に辿り着く。朝の食卓はそのときだけ、ほんの一瞬、停止に近いようすを見せる。


 陽炎のむこう、わずかに顫えながら列車はやってくる。


 ひとびとはざわめきやまない。ぬいた朝食のためにいらだち、毎日のように遅延を発生させているひとびとのいらだちにいらだつ。彼らはひとしく窓が並ぶ豆腐のような建物から建物へと移動し、みなこんにゃくをつくる仕事に就いている。騒々しい駅の構内をさらにいらだたせるためのアナウンスが身をくねらせる。ひとびとのあいだを縫って、しかしついぞ誰の耳にも届かない。そこに少女がいる。


 別段、少女である必要はなかった。たまたまその日はそうであるのに過ぎないのだった。しかし特別なことがあるとすれば、少女のその肥大した自意識こそが、ひとびとの苛烈な視線を集めさせたのだ。そのほとんどは少女の決心を疑っていたし、その宣言を嘲ってもいた。なにをか目撃するためにむけられた視線ではあったが、それは昨日とおなじ平穏さの遂行を確認するためでもあった。それともなかには蛭でもいたか。貪婪なそぶりを見せたものは、けれどもいなかったはずだ。


 遅延につぐ遅延、さきのばしにされ、極度に圧縮された時間が牽引されてやってくる。それから、ある一瞬について。


 画面には、他の乗客にまぎれた少女の後ろ姿が映っている。制服を着ていただろうか。ある種のひとびとにとっては、たんにそれだというだけで劣情を抱かせるような身なりを曝さなければならないことについての異議申したてが、もしかしたら起こさせようとしていたのかもしれない。彼らにとってのスカートの襞が意味しそうなものをすべて廃棄するために。むしろ彼らにとっては、彼女でなければならない特段の理由もないといっていい。それはありふれたものだ。


 なめらかに運ばれてくる圧縮された時間が多くの焦燥をひきつれてやってくる。浅い川のようにのびる鉄路からその悲鳴を聴くだろう。あたりはすでに聴きわけることができないほどの多くのものの悲鳴によって秩序だてられてもいたので、少女が身を投げたある瞬間をきわだたせるなにかはなかっただろう。通過電車が少女の目のまえを過ぎ去るよりもいくぶんてまえで彼女がしたことを見たものといえば、運転席に坐っていたひとりと、画面のむこうで散漫な視線を泳がせていた無数の誰でもない誰かだけだ。時間はいよいよ解凍される。それどころか自在にひきのばされ、際限なくそのなかから一瞬がとりだされつづけていく。


 からだの表面から伝わってくるもの。自身のものか、それともそうでないのかの判別もつかなくなるほどの震動、高速度で車輪を回転させ、レールを軋らせて接近してくるものがたてる音、あらゆる音域でさまざまな音が飛びまわっている。そのなかでももっとも鼓膜を脅かすものは、運転士が瞬時のうちに鳴らした警笛のそれであったに違いない。即座に非常停止装置を稼働させ、そのことを報せるアナウンスが、車内で眉根をよせていたひとびとのこめかみを叩いただろう、目覚まし時計のアラームよりもさらに効果的に乗客のいらだちと困惑を誘ったはずだ。


 レールは冷たかったか、コンクリート製の枕木は太腿を傷めなかったか、バラストは、からだじゅうの皮膚を貫こうと試みなかったか。たとえこまかな切り傷や刺し傷が額や頰、手頸や脹脛を彩ろうと、それから起こったことにくらべれば、あってもないようなものだ。声は、声帯は震えたか。地面に叩きつけられた衝撃で、肺臓を膨らませていた故気が、気管支を経てくちから洩れではしなかったか。声を発していたところで、それを聴きとったものなど、いるはずもないが。あらゆる痛みは恐怖にうち克つものだったか。それとも恐怖はすでに麻痺していたか。どのような感情がめぐったか。それを目撃したものは。


 先頭車輛とレールの隙間にうまくはいりこんだからだは即座に台車にとりつけられた車輪によって轢断される。そのあとも、何台もの車輪がそのうえを通過する。足頸を、脹脛を、太腿を、臍のうえを、胸郭を、肩を、腕を、手頸を、頸を、顎骨を、頭骨を断ちきり、破裂した血管から血が湧きでるよりもまえに、レールの表面にはりついた薄い皮膚のうえを通過する。車輪に巻きこまれ、捩じられ、捻られ、車輪の輪郭にそって何度もレールにうちつけられながら、少しずつこまかくわかれていく組織のあざやかさ。筋肉と脂肪と骨とが、それぞれの組織液を溢れさせて散らばっていく。ちぎれた手。それはもうなにも握らないし、触らない。


 車輪のしたに嚙み砕かれていく一瞬間のたびごとに、なにをおもったか。なにを考えたか。頭髪とついで頭皮を捕らえた車輪の隣りで、角膜は、そして網膜はなにをとらえたか。視神経は。耳は。頭骨のうえにわずかなあいだだけ車輪が乗りあげたときの痛みは。そのとき右耳は潰れたのか。ひきちぎられたのか。折れた頭骨が顔面のあらゆる組織に突き刺さったとき、そしてそこを食い破り、脳を突き破ろうとするときには、なにを感じたか。なにを考えたか。


 つぎつぎに訪れる長い一瞬を数える余裕を持って、くちはなにをしゃべろうとしたか。舌は、歯は、最後にどの音を発音しようとしたか。豆腐のようにやわらかく潰れる黄いろい脳がはじめて外気に触れた瞬間を、脳はなんといいあらわそうとしたか。皺をさらに増やすようにひしゃげては潰れたり裂けたりした脳が、レールの赤い錆のうえに落ちる。プラットフォームのふちをまたぐよう命令したその組織が、いまは擂り潰された粟粒のような姿をして枕木にはりついている。


 数個の車輪によってひきずられたからだであったものが、ひとの背丈の何倍もの距離を隔てて投げ飛ばされている。切断面からのぞくのはなにをつかさどっていた臓器か。車輪によって弾き飛ばされたそれらのうち、鶏頭の花のように蝟集し、波うち、皺よった形をしたなにかが、最後から二番目の搏動を、その名残りを伝えようとしている。塒からひきずりだされてきた蛇のようにのたうった臓器のしらんだ表面。冬の陽差しに乾かされていくそれら。


 胴体を断ちきられても、なにかを見たり聴いたりすることは可能か。それとも車輪がそれらをつかさどる器官をだいなしにしていったか。轢き潰されることをまぬかれた頭部はおのおのの部位を働かせようとするだろうか。表情筋をつりあげたり、瞼を閉じるか開かせるかしようとし、くちのまわりの筋肉を動かして、なにかことばならざることばを残そうとするか。いま、なにをいった? なにかつぶやいた? それは企みの達成を祝っての? それとも後悔の? 痛みは? 恐怖は? あなたにそれを問おうとするものの声は聴こえる? あなたを責めさいなむものの声は?


 朝寝のつづきをしていたものたちにとって、つかのまの穏やかな微睡みを終了させたあらゆる音がどのように聴こえたかをしらない。車体下部、足のしたで起こったできごとを靴底を通して感じとったものもいるのかもしれない。車輪が肉を嚙みちぎるときの音を、車輪が骨を砕くときの音を、それかからだが転がされるときにいっしょに巻きあげたのかもしれない砂利が車体にあたる音を、それぞれを聞きわけたひとはいたか?


 あなたは最後になにを見た? そしてなにを聴き、なにを感じた? なにを考え、なにをおもった?


 列車は数十メートル走ったのちにあわてて停止する。プラットフォームでのざわめき。したをのぞきこむひと、雀の眼ほどの大きさのカメラのレンズをむけるひと。あらゆる挙動が規則ただしく遂行される。それを目撃したひとの動作のそれぞれ。画面越しにそれを見てしまったひとはなにをした? 


 怒号。なにを嘆くのでもない、溜め息。貌をてのひらで覆うひと。直視するひと。つぎにあらわれるのはほとんどが怒りだ。自身がひきうけることになってしまった理不尽に途惑い、やり場のない怒りに震えるひとびとの群れだ。プラットフォームから溢れださんばかりの当惑、怒り。ほかには? 同情や憐れみが、悲しみが、怒りをなだめることはあるか? 彼女を責める声だけが聴こえ、さらなる遅延にいらだちを抑えようともしないひとたちの野卑な声だけが聴こえ。


 駅員たちの声と動作。つぎの指示を待つものたちの、空をきる手、やるせない手。


 肉片を拾う手。まだなにかを見ているかもしれない眼の、なにかをおもっているかもしれない表情のそばで、そのひとが所有していたものの冷たく湿った組織を集める手。うなだれて、ゴム手袋越しに肉片を摘まんだ指を、黒いビニール袋のくちへと動かすひとの背。青いビニールシートで隠された空間でいま起きていることをしろうとするひとびとの猥褻な目つき。デッキブラシを手に、汚れたレールや枕木を洗うひとがたてる音がかすかに聴こえている。撒かれる水がバラストの表面を濡らしながら地面に染みこんでいくかすかな音が聴こえている。


 なぜ、そう問うのはもちろんあなただけではない。


 割れた草龜の甲羅からのぞくそれぞれはみな干涸らびて縮んでいる。それを鴉はもう啄んだりはしない。


 事態は滞りなく進む。


 それでもまだ消失しきれない意識がそこで蟠っている。痛みと恐怖を堪えながら、まだそこで空を見ている。レールは冷たい。まだ車輪がからだのうえを通過する一瞬てまえで。恐怖に慄きながら。解凍された時間に幽閉されて。


 聴くひともなく、鳴り終わることもないオルガンの音。ひとは決して死ねない。

(初出「ユリイカ」2021年5月号)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?