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ヴァージンVSにたどり着くまで23~おけいちゃん待ってる、さつきに行こう!!~

大変時間が空いてしまいました。
このシリーズを編年体で書こうとすると覚えていないことにぶつかり、そこで進行が止まってしまうということになりますので方式を変えて、エピソードやエポックな出来事を中心に書こうと思います。緩やかに時間をたどっては行きますが話が前後することをご了承いただければと存じます。
 
さて先日、と言っても半年ぐらい前になりますが四国へ行く仕事があり、その前に大急ぎで京都に寄り、母方の祖父母のお墓参りをして、

祖父母のお墓がある南禅寺達磨堂

それから当時住んでいた辺りがどうなっているのか確認のため、これまた大急ぎで百万遍方面に行きました。

「都落ち」ヒロシ氏のお店、けんちゃん御用達「RINGO」
四郎さんの「東山湯」も健在

なにしろ大急ぎだったもので、誰にも連絡しないで失礼いたしました。
 
これが永井ホトケ氏やはっちゃんが住んでいた「細川荘」の現代の姿。
当時は本当の下宿屋さんでした。

永井さんとよく行ったコーヒー店「ケニア」も健在

また私が最初に住んだ洛水アパート、なんとコーポになっている。
これでは家賃5千円では住めまい。

洛水アパートの隣にあった居酒屋「さつき」の跡・・・

金曜日の夜にいつも集まっては飲んでした「さつき」は今はなく・・・
なぜ金曜日かというと、「東山湯」がお休みの日なので。
毎週ここで昭和歌謡大会が開かれていた。
「東山湯」の四郎さんや、私が一時期「田舎芝居」と並行して「ハニーパイ」というバンドを一緒にやっていた高橋由人氏は昭和歌謡の生き字引のような方々で、私はここで覚えた大下八郎の「女の宿」なんかは今でもカラオケのレパートリーになっています。でも誰も知らないからシラケますがそんなんは関係なく歌う。
 
「さつき」をやっていた「おけいちゃん」はどうされているのだろう?健在なら80歳はとうに超えているだろう。なにせ私が70代だからな。
「おけいちゃん」の「お母さん」はどう考えても既にお亡くなりになったかと。もし御存命なら120歳はいっている。
このお母さんから、鳥羽伏見の戦いで亡くなった方々の骨が出てきた話を聞いたぞ。多分伏見の方の御出身だったのだ。
ちなみにハニーパイの曲で「おけいちゃん待ってる、さつきに行こう!!」というのがありました。
また田舎芝居には「東山湯」という代表曲もあったな。
 
この「おけいちゃん」と「お母さん」2人だけでお店をやっていた。
 
洛水アパートに住み始めたときから「さつき」の存在は知っていたが行ったことがなかった。
しばらくしてフォークシンガーの坂本純ちゃんが豊田勇造さんから「さつき」の話を聞き、行ってみることにしたような覚えがある。
そういえば豊田さんが5つの赤い風船のベーシスト長野たかしさんと一緒に活動していた時、ひょっこりとお二人で「さつき」に来られたことがあった。
「さつき」の引き戸がガラガラと開き、フェンダーのベースのハードケースが先に入ってきたのを覚えています。当時は楽器のショルダーケースはなかった。
長野さんからステージングについて色々教えていただきましたっけ。
 
また「田舎芝居」がキャニオンレコードよりデビューし、京都先斗町歌舞練場でリサイタルを開いたとき、キャニオンで田舎芝居担当のディレクターだった坪野さん(そののちアルフィーやおニャン子で名を馳せる)をお連れしてベロンベロンになるまで飲みました。
ひょっとしてあの時が「さつき」に行った最後かもしれません。
まさかその時はこれが最後だとはみじんも思っていなかったので、ご挨拶も何もベロンベロンだったから。
 
また明日も会えると思って別れたが、それが最後だったということもあるので、日々礼節を尽くさねばならんと思う今日この頃ですね。
 
うむ、このような書き方の方が筆が進むぞ。編年体はやめにしよう。

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