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ヴァージンVSに辿りつくまでの久保田さちお3

ヴァージンVSに辿りつくまでの久保田さちお3

さて、本編に戻って、1971年夏・・・
練習場所もなく、バンドの名前もない状態でしたが、京都八瀬にあった確か「ヤングプール」?という名前の、冬は釣り堀になっていたというプールサイドで、練習兼にぎやかしの出演をすることになりました。
当時、八瀬には「グランドプール」?だったか、結構メジャーなプールがありましたが、そこではなく、もっと小規模なプールでした。これは、たしかベースの小堀さんの関係から頂いた話だったと思います。
もちろんギャラなんかはありません。ただで練習させてもらえるのだから。
で、お昼ご飯はそこのプールの食堂で食べるのですが、玉子丼なんかを頼むと、そこのおばちゃんが、気前よさそうに「大盛にしよか?」と尋ねてきますので、これはサービスしてくれるのかと思いきや、支払時にはちゃんと大盛の料金を請求されます。でも食べ盛りの19歳でしたから、毎回大盛を頼んで大盛の料金を払っていました。
ここで何回ぐらい練習というか出演をしたのか覚えていませんが、そんな回数はなかったと思います。
なんか商魂たくましい、八瀬「ヤングプール」?の食堂のおばちゃんがいたという遥かな思い出でした。

そんなこんなで1971年の夏が過ぎて行きますが、私はこの夏の終わりぐらいから寝袋とギターを持って、叡電元田中駅近くの細川荘という学生アパートに住んでいた永井さんの部屋に転がり込むことになります。
実家のぬるま湯に浸っていたのでは、
「ロックはでけへん!!」
という、お坊ちゃんからの脱皮をはかったのです。
しかし、2、3日に1回ぐらいは洗濯モノ持って宝塚の実家に帰っていたので、中途半端な脱皮ですね、その中途半端さはそのまま今に至る。

この細川荘の住人に、はっちゃんと呼ばれる人がおりました。
本名は服田洋一郎さん、後のブレイクダウンの服田さんです。
そのころの服田さんは、別にバンドもやっておらず、以前はベースをやっていたとかで、部屋にはエルク?だったかのベースがありました。
また、音響マニアなところもあり、たしかスピーカーも自作されたと思います、ユニットは三菱ダイヤトーンだったかと。
この服田さんのところに2トラックのオープンリールのレコーダーがあり、夜な夜な塩次さんや、永井さんが集まり、小さな音でセッションを録音していました。小さな音でしたが、よく大家さんから怒られていました。

また、近くに「土佐寮」という高知県出身の学生が住む学生寮があり、そこに「西村君」という同志社の学生が住んでいました。永井さんがどういう経緯で知り合ったのか定かではありませんが、永井さんと土佐寮の西村君の2段ベッドの部屋を訪ねて音楽の話をしていると、いきなりものすごい声でエルビスプレスリーを歌い出しました。
本当にすごい声でした。
そのころから西村君は「入道」と呼ばれていました。
そんなこんなで細川荘に転がり込んでからしばらくたって、多分ダムハウスのマスター(通称ダムのアニキ)を通して、京都岡崎天王町のディスコ「キャッツアイ」へ出演をすることになります。

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