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ヴァージンVSにたどり着くまで 12

ヴァージンVSにたどり着くまで 12

~1972年4月~8月 私がウエストロードを去るまでのコンサート記録を中心に~

前回の「FUCK‘72」で幕を開けた1972年4月から、私がウエストロードを去る8月までの間のメモが、当時の歌詞ノートにありますので、この間だけは比較的時系列で分かるようになっています。今回はそれに沿って進行したいと思います。
それによりますと、1972年4月15日京大西部講堂での「まぐろまるレポートNO1」というコンサートに出ました。主催者は誰だったのかな?
1曲目にエルモア・ジェームスさんの「Dust My Blues」で始まり、2曲目は「Born in Chicago」ということは、私が歌ったのですね、お恥ずかしい。
全12曲で最後は「Mojo Workin’」です。
ギターアンプ良好、ボーカル聞き取りづらい、とのコメントあり。
まだ「ボーカルアンプ」を使用してのコンサートだったのです、モニターなんぞありまへん。
でも、余り覚えていない。

4月23日は「広島大学学館ROCK Fes’」に出演。
前年度の学園祭でお世話になった歯学部学生の俵本さんの肝いりです。
新大阪発の「しおじ1号」に乗ったと書いてある。
今回は野外ではなく学館でのコンサートだったようですが、内容は覚えていない。
全部で16曲も演奏したようです。アッ違った「Key to the Highway」が消されているので、15曲。
ジャズ・ジラムの代表曲、8小節パターンのブルース「Key to the Highway」をどのようなアレンジで演奏していたのかな?カットされているということは、いまいち8小節のノリを作れていなかったのではないでしょうか。
学館の控室にダムのアニキとハレンチさんがいたと書いてあるので、ダムのアニキは京都のダムハウスを去って以来、ずっと広島にいたようです。ハレンチさんというのは今となっては誰だったのか?

5月に入り3連続出演!!
5月5日は大阪中之島公会堂「すりーぷあうと」というコンサートに出演。
お客さんよりスタッフの方が多いと書いてある。
確か元ジプシー・ブラッドのキーボードの方が出た覚えがある。ピンク・フロイドのようなサウンドだった。
この志向なら、ジプシー・ブラッドとは合わないので脱退したんだと納得。

5月6日京大西部講堂「フェスティバル・オブ・ライト」に出演。
これは再開店したロック喫茶ダムハウスに来ていた外人さん達が主催したコンサート。
メモにはボーカルアンプ不調、台数不足。ストロボは疲れるとのコメントあり。
このころから照明にストロボライトは導入されていたんだ!!
また、このコンサートでは舞台上まで、ある種の植物を燃焼させるときに発する臭気が漂ってきていました。
さすが外人さん主催のコンサート。

5月7日は円山野外音楽堂で成毛滋さんの前座で出演。
ドラムのつのだひろさんがインディアンの酋長のような恰好で登場したのはこの時だったかな。
前日のコンサート主催者の外人さんたちが、ビールとサンドイッチを差し入れてくれました。
親切な外人さんだと書いてある。
17時10分から、NHKテレビで「CREAM」の「動くのが見られる」ということで、楽屋で、一緒に出演した「スパニッシュ・ハーレム・ナイト」の佐藤さんが持ってきてくれたオンキョーテレビでみんなで見たと書いてあります。
そうなのです、当時はMTVもYOUTUBEも家庭用ビデオデッキもありませんので、エリック・クラプトンさんがギターを弾いている動画を見られることは、超貴重な機会であり、放送されているときに見ない限り、ほぼ永久にみられないのです。
だいたい多くの学生下宿にはテレビそのものがありませんでした。
当時から考えると現代は、超未来世界です。
スマホで世界中と繋がることができる。
ウルトラ警備隊も、0011ナポレオンソロUNCLEの「衛星通信」をも、遥かに凌駕している今日です。
なんか変な結末ですが、今回は以上でお終い、次回へ続く。

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