見出し画像

ヴァージンVSに辿りつくまでの久保田さちお5

ヴァージンVSに辿りつくまでの久保田さちお5

1971年夏の終わり、京都岡崎天王町のディスコ「キャッツアイ」の駐車場にて、九州大学の学園祭に出るにあたってのバンド名を考えるミーティングが開かれています。
私は、少し前にイギリスのフォーク歌手ドノバンが作った「ビックロード」というバンド名を思い出し、「なんとかロードがええんとちゃうか」と提案しました。
塩次さんは、「そらええかもしれん、よし、インドへ向かうウエストロードにしよう!」ということになりました。
当時はインド⇒サイケデリック⇒ちょっと精神性があるかも、という流れだったかと思います。
このときは、まだ「ブルース」ばっかりやるバンドではなかったので。

旅費はキャッツアイの出演料全てを当てる。
九州で泊まるところは、塩次さんのご実家である大牟田。
九州大学の学園祭だけではなく、熊本大学の学園祭も入ることになりましたので、大牟田からバスで熊本まで移動するということになりました。

私は居候させて頂いている関係上、永井さんと一緒に行くことになり、永井さんは、
「切符の手配は久保田に任せた!」
ということで、私はできる限り安い行き方を模索し、結局、夜行急行で九州に向かうことにしました。
今なら高速バスがありますが、当時は中国道もない時代です。
当然、「寝台車」など贅沢なので、椅子席です。

大阪駅で永井さんと合流し、博多行き急行列車に乗車。
荷物は、そのころ使っていたアリアのレスポール型のギターと寝袋。細川荘にいるときと同じですね。
朝になって博多で乗り換え、やっと大牟田に到着。
何時間かかったのか覚えていない。

大牟田の塩次さんのご実家は、ご両親が都合よく旅行中とかで我々だけでしたが、何故か細川荘の住人、服田さんが、どうやって来たのか?そこにいました。
服田さんはベランダに置いてあった「ダイナマイト」と書いてある木箱を目ざとく見つけ(中はダイナマイトではありませんが)何か一瞬、革命家的な思想にふけっていました。
革命家的な行動は、その後の「ブルースハウスブルースバンド」→「ブレイクダウン」の破壊的(失礼!)なギタープレイに活かされたのでしょう。

さて、翌日か、翌々日か定かではありませんが、バスで熊本へ移動し、熊本大学の学園祭に出演しました。
ここで、同じく京都から来た「69」というビートルズばっかりやるバンドと一緒になりましたが、その話はあとでしましょう。
地元のバンドでは、赤いSGを弾いているギターの人がいるバンドが、なかなか良かった覚えがあります。
熊本大学の学食で、女子学生がミカンの缶詰を食べているのを見て、服田さんが「ウェー」といっていていたのを覚えています。
甘いものが苦手だったのかな。
でも、缶詰ではない普通のミカンを、細川荘で一気に5~6個食べたのに遭遇したことはあります。

そして次の日は、いよいよ九州大学の学園祭ですが、ここで強烈なバンドと一緒に出演することになります。
「サンハウス」です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?