自分史その1

みなさんこんにちは。

来月いよいよ法人化するにあたり、自分の人生を振り返り、自分史なるものを書き留めたいと思います。

大阪の枚方市(ひらパーが有名)に生まれ、父母妹の4人家族で長女として誕生しました。2歳年下の妹が出来るまでは、自分中心の家族だったのが、妹が出来てからは、妹中心となり、お姉ちゃんだからねとよく言われていたのを覚えています。幼心に、妹の持ち物に落書きとかしていたのは、妹への嫉妬心もあったんだろうな〜と今となっては感じます。

とはいえ、年下の子供の面倒を見るのは好きで、親戚と集まった時にはよく赤ちゃんをあやしたり、遊び相手になっていましたので、毎年お正月やお盆に祖父母の家に行くのがとても楽しみな子供でした。金魚や犬の世話をするのも好きで、将来の夢は、ムツゴロウさんみたいな動物園のようなものを作りたいと3、4歳の時は思っていました。

5歳になり、私立の幼稚園に行かせてもらい、綺麗な先生に囲まれて自分もいつか幼稚園の先生になって、子供達に勉強や遊びを教えて、自分の子育てにも活かせる知識を身に付けたいなと子供ながら感じていました。母も私が生まれるまでは、保育士をしており、子供の教育には熱心で、幼稚園の時点で、絵画・スイミング・習字・英語・公文・ピアノの6つのお稽古事を習わせてもらい、ありがたいことですが、タスク多めの子供でした。

小学校に進学し、毎日9〜16時までは学校、終わると習い事に行き、家に帰るのは18時頃という、小学生にしてはハードワークをしていました。妹も同じようなタイムスケジュールで動いており、この頃から母はパートに出掛け始め、今思うと習い事で家計が圧迫されていたのかなと感じます。

小学校は勉強しに行くというより、休み時間にドッチボールやキックベースをするのが楽しみだったので、放課後遊ばずに、習い事に行くのが嫌でたまらなくなりました。たまに熱があるからとサボって休んでいましたが、母がパートで一生懸命稼いでくれたお金を捨てていると思うと、悲しくなりました。思い切って、全部習い事をやめたいと伝え、やめた時は達成感満載でした笑。ただ大人になると、つくづく思うのは幼少期に感性を磨いて良かったと行くことです。今、色んなことに興味や好奇心があるのは、幼少期に色々チャレンジさせてもらったおかげでもあるなと。

小学校4年生までは思い切り遊んで、遊んで、遊びまくりました。何をしていても楽しかったし、時間が経つのも長かったです。小学校5年生から、仲がいい友達が塾に通い始めたので、一緒に通うことにしました。入って知ったのですが、結構進学塾で、中学受験をしている友達がたくさん出来、一緒に混じって、21時頃まで勉強していました。中学受験もするつもりはなかったですが、一生懸命頑張っている友達を見ると自分も頑張ろうと思えるのが楽しく、勉強も出来ないより出来た方がいいなと思い、学力も付いてきたのが楽しかったので、結局中3までその塾を継続して通いました。

中学に入り、思春期に入りました。特に中1が一番楽しく、クラスにとにかく盛り上げ上手な男子数人と、先生も個性的で、毎日バカ騒ぎをしながら、授業を受けるのが楽しかったです。1人好きな男の子がいて、放課後に話したり、バレンタインにチョコを渡したり、学校生活が一緒にいる人で一気に楽しくなったのを覚えています。結局、気持ちは伝わらずでしたが、その後も仲のいい友達関係を継続できたのが良かったです。

中3に転機がおとずれました。私が転校することになったのです。受験シーズンでしたが、元々マイホームを建てようと父が計画をしており、ちょうど中3になる頃に出来たため、小学校から仲良しだった友達とも別れ、隣町に引越しすることにしました。友達が出来るか不安だったのですが、ちょうど小学校5年生から通っていた塾の友達が幸いその中学にもいて、転校初日から友達が家に遊びに来てくれるという、本当にツイテル状況でした。

しかも私は元々遅刻ぐせがあったので、前の中学が家から徒歩30分以上かけても通っていたのが、ネックだったのですが、転校後は徒歩5分の場所だったので、お昼休みに忘れ物を取りに家に帰ることも可能となりました笑。いやーーーツイテル笑。

しかも大きい家に住むことになり、番犬として大型犬のシェパードを飼えるとなり、動物好きの私にとっては最高の中学生活がスタートしました。シェパードは体重50キロほどあり、散歩は苦労しましたが、河川敷や庭でよく一緒に遊んだり、乗り物じゃないけれど、上に乗ったり、兄弟が増えた感覚で、受験でキリキリしていたのを解してくれる存在になってくれました。

無事受験も終わり、第一志望の公立高校に進学が決まりました。近所の綺麗なお姉さんも通っている進学校だったので、一緒の高校に通えるのがミーハーながらも嬉しかったです。親もとても喜んでくれて、一安心でした。やるからには受かりたい、出掛ける時には必ず単語帳や本を持って、移動時間を勉強に当てていたので、努力は報われると確信しました。

電車で30分程かけて、高校に通っており、制服はあるが私服OKで、髪色の指定もなく比較的自由な高校でした。にも関わらず、制服を着ている人が半分くらい居たり、髪色も奇抜に染めない人が大半で、規則で縛る方が人はハミ出したくなるのでは??と感じました。唯一ドレッドヘアをしていた女の子がたまたま私の前の席で、それきっかけで仲良くなったのですが、家族思いの素敵な女の子だったので、人は見た目で判断しないようにしようと感じました。

高校はとにかく自由ですが、進学校で勉強のレベルが高い。卒業生もその高校出身でアナウンサーになった人が多かったりで、放課後も図書館で勉強したり、塾に通うようになったり、置いていかれないように必死になりました。地元の中学では比較的勉強は出来たのですが、進学校になると一気に中の下からのスタートでした。ただ勉強するのが嫌とかではなく、ここからどう這い上がろうか、どうしたら楽しく学べるのかを考えれるようになりました。

幸い、高校の先生が皆個性豊かで、授業自体が教科書を読むだけというよりは、オリジナルでストーリーある内容にアレンジしてくれたので、高2の時はクラスで5番くらいには入れるようになりました。やっぱり誰から教えてもらうかだなと感じました。その後、油断したのですぐ成績が中の下に下がりましたw

高校3年生で受験を迎え、センター入試たるものを初めて受けました。結果惨敗で、最終公立大学には受かったのですが、行きたい大学ではなかったため、1年浪人することを決めました。同じ高校の友達も何人か浪人メンバーがいたので、安心して浪人生活をスタートさせれました。自分が親だったら、塾代や交通費など入れたら100万円くらいの出費なので、公立大学にストレートで行かず、本当にごめんと思いますw

浪人生活は勉強ばっかりで嫌になるかなと思いきや、意外と楽しめました。同じ浪人仲間が10人ほど出来たのと、塾が梅田にあったため、行き帰りでショッピングや百貨店でつまみ食いをしながら帰ったり、祖父母や親との時間も改めて持てたり、家事を手伝ったり、多分ストレートに大学に行っていたら、友達関係やバイトに費やしていた時間が多かったと思うので、結果良かったです♩1浪し、結局第二志望の大学には行けたので、1年楽しみが伸びた大学キャンパス生活に19歳にして入れました!!

ここからは次の日記で記載したいと思います。

お読みいただき、ありがとうございます^^



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