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偉人:坂本龍馬はどんな性格だったのか?2

皆さんこんにちは。

前回は坂本龍馬の良い面の性格をお話ししました。

今回は表裏一体で、悪い面の性格をお話ししたいと思います。

■常識外れの図々しさ

細かい事にはこだわらない、剛毅でおおらかな性格の龍馬でしたが、それは翻って「図々しさ」として周囲に映ることもあったようです。

大河ドラマ『龍馬伝』で、副主人公のように描かれた岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、海援隊設立当初、たびたび資金をせびりに来る龍馬たち海援隊の一行を指して「厄介者ども」と日記帳につけています。『龍馬伝』では、龍馬に対し愛憎入り混じった感情を抱いているように描かれた弥太郎ですが、その描写は割と真実に近かったと言えそうです。

また、武市半平太の妻である武市富子(たけちとみこ)も、「龍馬さんがたびたび庭に小便をしていくのです」と、率直かつ切実な苦言を吐露しています。余談ですが、12歳まで寝小便をしていたなど、龍馬には何故か小便に関する逸話が多いです。

ともかく、人の心のうちに巧みに入り込む「人たらし」の坂本龍馬。しかしその「人たらし」の本質は、ともすれば図々しさとして忌避されるものにも映っていたようです。

■母代わりの姉に対するシスコン(マザコン?)ぶり

龍馬はよく手紙を書いていたようで、彼の自筆であるという手紙は数多く残っています。そしてその多くは、土佐にいる龍馬の実の姉・坂本乙女(さかもとおとめ)に宛てられた手紙です。

龍馬は幼い時分に母を亡くしていたため、姉である乙女が母親代わりに育てていたとも伝えられています。乙女は身長174㎝、体重112㎏ほどと、現在基準でも大柄な女性で、気弱ですぐ泣く龍馬少年を「それでも男か!」と叱りつけるような、たいへんに男らしい性格であったと伝わっています。

龍馬はそんな乙女を心から慕っていたらしく、勝海舟への弟子入りをしたことの自慢や、おりょうとの結婚についての相談。果てはたわいもない日常の事まで、事細かに手紙に記しては、乙女に宛てて送っていたことがわかっています。当時の手紙が高価だったこともあり、龍馬がいかに乙女を信頼し、何より慕っていたかがわかるエピソードでしょう。

そのような手紙のやり取りは、龍馬が死ぬまで続いていたらしく、龍馬が生涯に残した手紙のうち、そのほとんどが乙女に宛てられたものであるとも言われています。

龍馬の強い家族愛を示すエピソードでもありますが、龍馬のしていることは現在で言うと割と「シスコン」というか「マザコン」というか……。ともかく、龍馬が姉離れ(親離れ?)をすることは、生涯出来なかったと言えそうです。

■坂本龍馬の性格がわかる名言

「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」

後に大きな事柄を成し遂げ、文字通りに日本の未来を変えたと言える坂本龍馬。彼の強い決意と深遠な人間性を秘めた、とても詩的な言葉です。

「万事、見にゃわからん。」

ことわざに「百聞は一見に如かず」というものがありますが、まさにそれ。あまり本を読まなかったという龍馬の根底には、この一言に集約される考えがあったのかもしれません。

「人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ。」

偉大な業績ばかりがクローズアップされがちな龍馬ですが、海軍操練所の閉鎖など、多くの窮地や失敗も経験しています。

しかし、本来なら折れてしまうような状況でも彼が諦めずに偉業を成し遂げるに至ったのは、このような考えが彼のうちにあったからでしょう。落ち込んだときに思い出すためにも、心に留めておきたい一言です。

次の回では、そんな龍馬に大きな影響を与えた師や仲間、今でいうメンターやビジネスパートナーについてお話ししたいと思います。








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