萩原朔太郎との出会い

小説を読んでいた。
それは、何度か読んだ小説でもあった。
私は、わりと気に入ったものは何度も読み返す。逆に言うと、1回目は、先の展開が知りたくて全体把握を目的として流し読みしがちとも言える。だから、2回目、3回目はじっくり読み、拾いきれてなかった情報を見つけて、胸が高鳴る。私が同じものに複数回触れることに抵抗がないのは、毎回新鮮に楽しいものがあるからだろう。勿論、月日が経過したあとの読み返しも、自分自身が変化したことによる受け取り方の変化が大変楽しい。

話を戻すと、繰り返し読んでいた作品の中に、萩原朔太郎の作品の一部が引用されていた。

「永遠に、永遠に、自分を忘れて、思惟のほの暗い海に浮ぶ、一つの侘しい幻象を眺めて居たいのです。」

この言葉に、私は気持ちを鷲掴みにされた。
詩であるという認識も、萩原朔太郎がどんな作家なのかという知識もなく、ただ唐突に出会った文字の羅列に胸が高鳴り息を止めていることに気づいたのは、息を吐いたときだった。

ひょっとすれば、さみしい世界とも言えるのかもしれない。けれど、私にとっては救いのような言葉にみえた。知らぬうちに、走り回って、息切れするような気持ちで、日々を過ごしていたことに気づいたような気分だった。
「永遠に」という言葉が連続して利用されている。それが、計測できない長い時間、もはや時間という概念をすてたようにみえた。そんな、時間から解き放たれた世界で、自分という存在からも解き放たれる。俗世からの隔離のように思えた。そんな中で、海という広大な場所はあるともとれるしないともとれるそんな存在にみえた。見渡す限りの海は水平線があるのみで、蜃気楼のようにあるのか無いのかわからない幻像をながめる。限りなく無に近い世界で、ひとつあると言ってもいいのかわからない幻の像をただひたすらにながめる
そんな境地に憧れた。


人と人の出会いと共存は美しい瞬間もあるが、私にとっては、苦しい時間も多い。無になることへのあこがれのような、私の望みをみたような思いだった。


極光地方から

 海豹(あざらし)のやうに、極光の見える氷の上で、ぼんやりと「自分を忘れて」坐つてゐたい。そこに時劫がすぎ去つて行く。晝夜のない極光地方の、いつも暮れ方のやうな光線が、鈍く悲しげに幽滅するところ。ああその遠い北極圈の氷の上で、ぼんやりと海豹のやうに坐つて居たい。永遠に、永遠に、自分を忘れて、思惟のほの暗い海に浮ぶ、一つの侘しい幻象を眺めて居たいのです。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1790_66588.html

という感動したところで、書店で詩集を入手してきた。彼の作品に出会うのが楽しみである。