【ハーネス問題】「ペットみたい」と「可哀想」は分けるべき
子どもにハーネスをつけるのに賛成?反対?という議論が盛り上がっている。
ハーネス反対派の意見で、「ペットみたいで可哀想」という内容が必ず取り上げられる。
しかし、私には全く意味が分からない。
「ペットみたい」と「可哀想」は、分けて考えるべきだと思っているからだ。
ハーネス=ペットみたい?
ペットみたいだと言われているのは、ハーネスがこのような形をしているからである。
確かにペットに鎖をつないでいるように見えなくもない。ここまでは理解できる。
ペットみたい=可哀想?
では、ペットに似ていることと、子どもが可哀想ということにはどんな繋がりがあるのだろう?
そもそも、ペットにハーネスを付ける目的は何だろう?
ペットにハーネスをつける目的は、ペットの安全を守るためであり、周りの人に危害を加えないためでもある。
親が子どもにハーネスを付けるのは、子どもの安全を守るためだ。
ペットや子どもの安全を守ることが、可哀想なことなのだろうか。
「動物にすることを人間にやるのが可哀想!」
という人がいるかもしれない。
しかし、これも的はずれだと思う。
もし仮に、床に食べ物を置かれている子どもがいたら、それはもちろん「ペットみたいで可哀想」だ。
なぜなら、床で食べるという行為は、四足歩行のペットの効率を考えて行われていることであり、二足歩行の人間に当てはめるものではないから。
人間が快適に食べるという目的を達成できないから、「可哀想」だ。
安全を守るという目的で付けられたハーネスは、全く可哀想ではない。
「ペットに似てる=可哀想!」
この考えは表面的すぎると思う。
そして、このような表面的な考えを他人にぶつけるのは明らかな間違いだ。
その才能は、もっと別の所に使われるべきだ。
私は今、偶然にも北川景子と同じ髪型をしている。
子どものハーネスを見て、「ペットみたいで可哀想」という暇があるのであれば、私を見かけたときに「北川景子みたいで素敵ですね!!!」と褒めてくれてもいいのではないだろうか。
そんな世の中になって欲しいと、石原さとみと同じ数の目がある私は思っている。
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