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ググレカスの向こう側(わからないと知りたいの距離の話)

たとえば「クッキーってどうやってつくるの?」と言われたとき、その人がなにを知りたいのかによって返事のしかたが変わってくる。それについてまったく想像したことがなくて、そういえばどうやるの?とちょっと知りたい人にむける返事と、今から実際にクッキーをつくろうとしている人にむける返事はまったくちがうものになる。もちろんどちらも真実を言うのだけれど。

上記の2択はわかりやすいけれど、実際に多くある質問というのはこの間のどこかで、すぐにはわかりにくい。「いつか役に立つかもしれないから、ちょっと聞いておきたい」「実際にはつくらないけど、興味があるから知識だけ得たい」などの、「知りたい」という気持ちはウソではないけれど、どのくらいの返答をしたらいいか迷うことがよくある。「別にほんとうに知りたいと思ってないよね?」とわかるからだ。


このご時世、インターネットでちょっと調べたら5秒でわかるようなことを、あえて誰かに向かって質問する(知り合いとの会話ではなく質問のみ)、いわゆるググレカス案件は、いつでもどこにでもあらわれる。

是非はともかく、わたしはこれは「だれかに答えてもらう」ということに意味があるのかなと思っていて、「先生、バナナはおやつにはいりますか?」と同じなのだと思う。実際にバナナを持っていきたくて聞いているわけではなく、グレーの部分をつついてどう返事をするか聞きたいとか、線引きをして失敗を防ぐとか、質問することでそれについて考えているアピールだったりとか、自分の考えや行動からでる質問ではない。


そんなふうに「質問ってなんなんだろうねえ」と思っていて、先日も、仕事に関するてきとうな質問をてきとうに流したりしていたら、てきとうな質問に混ざって「それでボク、なにが向いてますかね。一体どうしたらいいですかね」と言うので驚いた。知りたいことは「いったいボクはどうしたらいいのか」で、それを知るための質問だったのかと。

ひとの考えを聞いて得ることやわかることはもちろんあるけれど、まず自分がなにを知りたいのかわからなければ、どれだけ聞いても何の役にも立たない。明日クッキーをつくるひとが相手なら、細かくていねいにわかる範囲でこたえるけれど、「ボクはなにをすればいいかわからない」というひとに言えることは、クッキーのつくりかたではない。それくらい彼の質問はとんちんかんすぎた。

なにか得しようと思ってとりあえずで質問しても、知りたいと思っていないことは伝わるから、やめたほうがいい。なにがわからないのかが自分でもわからないのなら、人に質問する段階ではない。わからないことがたくさんあるのはあたり前だけど、じぶんが知りたいことは自分にしかわからないから、わからないことをぜんぶ知る前に(そもそもそれは無理)なにを知りたいかを考えたほうがいい。まずは自分に質問しなさいよ、と言った。

自分の質問に答えを出そうとすることで、でてくるのはだいたい答えではなくて、さらなる疑問や質問だ。ほんとうに知りたいことはそっちにあるはずだから、それをぶつけてくれたらいっしょに考えるよ、と。


そんなのちょっと調べたらわかるでしょ、というような質問の奥にあるものは、まったく別の問題なのかもしれない。かといって、わたしからいちいち深堀りするほど親切ではないけれど。ただ、意味のない質問を真に受けて眉間にシワを寄せずに、質問の向こうにはそれぞれの人生があるけれど、その距離が近く人生に直結している質問ができるようにと気を引き締めるようにしよう。


「バナナはおやつにはいりますか?」ではなく「わたしが食べたいおやつはなにか?」だけ考えよう。


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