ナチュラル素直とクリエイティブ素直
「素直」を、わたしは長い間持っていなかった。
それを悪いことだと思ったこともなかった。ないものはないのだから、欲しがらないで、持っているものをちょっといいふうに使うしかないのだと思っていた。
ひねくれていて物事をナナメにみるのは、多面的にみることができて、多様性を受け入れられるからいいと思っていたし、ヘタに信じて裏切られる心配がないから、ひとをキライにならなくてすむからいいと思っていた。だれかに頼ったり甘えたりしなくても、じぶんでできるようになればいいと思っていた。褒められないのは足りないからしかたがないと思っていた。
こどものころから親に否定され続けてきたことで、自己肯定感が足りないこともわかっていたけれど、それこそ過去は変わらないのだから、ほしがってはいけないと思っていた。両親に愛された育ちのよい、素直で明るい女の子というのは最強だけど、それは努力では手に入らないとわかっていたからだ。
「素直じゃないけど自分好き」というねじれで、「まあ、しかたないよね」と認めて肯定していたのだと思う。
だけど、ここ数年はちがう。
と言っても「素直になろう」と努力をしたわけではない。急にそれは、一体なにをがんばったらいいのかわからない。
わたしは素直じゃないあまりに、行き着いたところが「自分をうたがう」ということだった。仕事や生活のありかたをどうしたいか考えるときに、「ほんとうはどうしたいのか?」「いちばん大事なのはなにか?」と常に自分に問いかけて、答えがでても何度でも「ほんとうに?」とくり返しうたがい続けた。それは結果的に素直にならざるを得なかった。
そうしてほんとうに自分がどうしたいかわかったら、「でもなー」と否定を探さないで、ただただどうしたらそれができるかだけを考えた。他人の目や評価を一切入れず、自分自身とだけ会話をした。そして決めたら行動した。
わたしは、じぶんの思っていることと行動が近い(同じ)ことがしあわせだと思っているので、これは最短距離でしあわせになる方法だった。
だけど、生まれもったものや育ちで培ったものではなく、ビギナーなので、自分だけで完結することは問題ないのだけれど、相手があることだとまだまだ躊躇するし、加減がわからない。素直に思ったとおりに飛びこんだらプールの水がなくて怪我をしたり、素直に進んでふりかえったらハシゴがなくて途方に暮れたり、正直いいことばかりではない。
それでも、決めたのだ。オトナになってからも、あたまをつかって考え方ひとつで素直になれると信じて、実験すると。
愛された天然のつよさと、考えて創られたつよさは比較にならないかもしれないけど、最高のクリエイティブだとも言える。
ハリボテの素直でどこまで通用するか、見ててね。
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