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雑談が好きなことと、本をつくることについて

わたしは雑談が好きだ。

あまりに雑談が好きすぎて、昨日は自らイベントを主催してお客さんも呼んで雑談をした。スイスイサクサク 公開よむラジオ〜今日もぜんぜんわからない」


イベントテーマの「今日もぜんぜんわからない」というのは、スイスイとふたりでやっている「スイスイサクサクよむラジオ」で、わたしとスイスイがあまりにもあらゆることにおいてちがいすぎて、いつも「え、そんな人いる?」「なにそれぜんぜんわかんないわ」となることからきている。


「この人の言ってることがわからない」というとき、理解できない人に対して怖がったり嫌うのがいちばん楽な方法で、わたしも学生の頃は「よくわからない人」には近づかないし接点をもたなかった。オタクとヤンキーは交わらなかったし、ギャルにはギャルの友達ばかりがいた。共通の景色も言葉も持ち合わせていないからだ。(ちなみにわたしはCUTIE寄りのオリーブ少女だった)

でも、「わかる人とだけいればいい」のはとても狭くて、そもそもわかり合える人なんてそういない。わたしたちは大人になればなるほど「わかりあえること」の少なさにおどろき、ときにガッカリもする。

だから、大人になるほどわかりあえない人との付き合い方が大事になる。わからない人に「わからないからわかりたい」と思えると、関心をもってもらえた人はうれしいし、「知りたい」という興味関心はいつでも友情や恋愛の入り口になる。たとえその結果「やっぱりわかんないわ〜」となったとしても、そこでうまれた対話の分だけ自分の中にはなかった色が増える。


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先述のようにわたしとスイスイはまったくちがうしわかりあえないけど、とても仲良くしているし、お互いを尊重できる。それはなぜかと言うと、雑談ができるからだ。

「雑談ができる」って、雑談なんて誰でもできるだろうと思うかもしれないけど、わたしの好きな「雑談」はふたつの条件を満たさないとできない。


まずひとつは、お互いに正直であること

正直であるというのは、自分がどう思っているか、自分のことをよく知っていて、偽らないということで、逆に、正直でないというのは、他人の出すものによって自分が出すものを変えたり、本当は思っていないことをその場に合わせて言ったり、さらにそのことに自覚がないことだ。

正直でない人は、自分が隠している触ってほしくない部分に触れられると怒る。そうならないように話す内容や反応をコントロールしようとする。無意識でも。

正直な人は、断固たる意思があるとか思ったことをなんでもいうということではなくて、わからないことをわからないと言えて、考えが変わったら変わったと言える。

お互いに正直だと、ちがうことが怖くないし、攻撃されないので、安心して自分の思いや考えを整えずにそのまま出すことができる。きれいにラッピングされずに相手をそのまま知ることができると、いい雑談ができる。


もうひとつは、言葉を持っていること

言葉を持っているとは、難しい言葉を知っているという意味ではなくて、思いと言葉が合っているかどうかを見る感覚があるということで、人に伝えるときに誤解がないよう気を配れることだ。

言葉を持っていると、なぜ好きか、なぜイヤか、どうしたいか、どう思ったかを言葉にできる。なんとなく思っているだけでは人には伝わらない。ヘタでもいいから、自分の言葉で自分の思いや伝えたいことをデザインできると、どんなにちがうものでも伝わりやすい。

あなたのイスとわたしのイスはちがうのよ、というとき、ただ「ちがう」ではなく、どこがどうちがうのか細かく言えると、「それはちがうね」とお互いに認識できる。思いは見えないので、言葉を尽くすしかない。


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雑談は、インタビューとはちがって双方向に対等な位置に立ってする。一方的に引き出す側と答える側にならないことで、お互いに引き出しあい、交換ができる。

ふわっとした意味のない雑談のなかにキラリと光る言葉や思想が見えることがあって、それは引き出そうと思ってもでてこなくて、あらかじめ用意された言葉ではないからこそ光って見える。

言葉に詰まったり何かに強く反応してしまったりするのも、ライブ感のある雑談だから出てくるその人の一面で、スムーズに進むことだけがいい雑談ではない気がする。


また、いい雑談は、側で聞いている人がつい自分も入りたくなったり、なにか言いたいことが出てくるのだと思う。

昨日のイベントでも、終了後に参加者のみなさんのツイートを見ていると、これはわかるとかこれはわかんないとか言いながら、自分のことを話したくなっていたのがうれしかった。(#公開よむラジオ でツイッターやnoteで書いてくれています)

自分のことを知るのに他人の雑談はとても役に立つ。


雑談をしたり聞いたりすると、他人のなかに自分をみつけたり、意味のないことのなかに意味をみつけたり、イヤなことのなかにいいことをみつけたりできる。そのみつけたちいさな宝をまた誰かと交換したりするのが好きなんだな、わたしは、と思う。


わたしの好きな「雑談」をちょうど説明してくれる「対話の可能性」という文章がある。

対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人と自分との違いがより繊細に分かるようにうなること、それが対話だ。「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ。
何かを失ったような気になるのは、対話の功績である。他者をまなざすコンテクストが対話のなかで広がったからだ。対話は、他者へのわたしのまなざし、ひいてはわたしのわたし自身へのまなざしを開いてくれる。

鷲田清一『対話の可能性』より


雑談は、知っている人とだけ数人としかできないような感じがあるけど、わたしは同じことを本でもできると思っている。今まで何度も本と対話や雑談することでたすけられたし、本に書いてある思いや経験や考えで自分の視野がどれだけ広がったかわからない。


今までは誰かの書いた本を読むことで雑談をしてきたけど、今度はわたしが誰かの雑談相手になりたいと思って、今、本をつくっている。

わたしの書いた言葉がまとまった本を読んで、どこかでだれかが「この人はこうなんだ、じゃあ自分はどうかな?」と考えることができたら、そのための材料をたくさん用意できたら、その話し相手のようになれたら、とてもうれしい。

すこし前までは本を作る意味がみつけられなかったんだけど、ようやく見えたので、ここに書いておくね。

正直に、言葉を尽くして、本作りがんばります。

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