とはいえ Try Everything(「ズートピア」を観て)
映画「ズートピア」を観た。
いやーすごい。
多角度から観れて、どんなひとでも楽しめるのだけど、これをうさぎを主人公にアニメの動物たちで表現するの、すごい。
テーマの押し付けがましさがないし、むしろ「夢はあきらめなければ叶うよ」というダミーのテーマのような見せかたで、そのうしろにある重い問題定義を軽くしているようにも思えた。
そして「意識のない偏見や差別」を、「よくない」「やめよう」というさらなる「偏見」で止めず、善悪や敵味方の不確かさで、線を引くこと、または引かないことによるグラデーションで、くっきりとした世界などないのだ というマトリョーシカのような見せかたは、ほんとうにすごかった。
だれかの正義にだれかが泣いているし、多様性の度合いが増すほど構造が複雑になる。
共存するために、どんなひとも認める方法(鳥の目)、自分や身近な人が困らない方法(虫の目)、時代やタイミング、組み合わせを読む方法(魚の目)の、すべてをかなえることの難しさと必要性について考えた。
わたしはいつも、自分とそのまわりの人のしあわせばかり考えている。
どこかの誰かがしあわせかどうか、知ることはできないと思うし、表面的な側面で判断するくらいなら「わからない」としたほうがいいと思っている。そうしないと、うっかり「結婚して子供がうまれてしあわせ」「お金がなくてかわいそう」などという偏見にかんたんに陥ってしまう。
じゃあ、何もかも人によるし、なにもわかることはないのか?と言うとそうではない。
わたしの思うしあわせは「思いと行動がおなじ」であることだ。
「こうしたい」「こうありたい」と思っていることをすでにしていること。その前に「こうしたい」「こうありたい」と思えること。それがはじまりで、そこには自分以外の誰かは存在しない。
「だれかにしあわせにしてもらう」のではなくて、「自分がどうしたいのか」があってはじめて、それを叶えるために何が必要か、誰が必要かを見つけられるのだと思う。
同時に「だれかをしあわせにしたい」と思うとき、それはその人がどうしたいのかを見つけてあげること までしかできないと思う。
つめたいかもしれないけれど、相手がそうしたいと思ってもいないことをしてもらって自分がしあわせになるということは、ないと思う。少なくともわたしは、自分の力で誰かをしあわせにすることはできないと思っている。
思いきり矛盾するようだけれど、わたしは「自分のまわりの人はみんな、しあわせにしてあげる」とも思っている。
そのためには「すきなようにしてね」「じぶんで決めてね」という環境をつくって、縛らないこと、ひろい視野を与えることを意識していて、それは同時に突き放すような厳しさや寂しさもあると思う。
わかりあえない前提で、孤独をかかえている前提で、じぶんが(相手が)どうしたいのかを知って、しあわせになるのに必要なのは、鳥の目、虫の目、魚の目にくわえて、他でもない「わたしの目」だ。
そしてそれぞれの「わたしの目」で見えているものが同じとき、いっしょにしあわせになることができる。
じぶんが「こうしたい」と思っていることを、「どうして?」「ほんとうに?」と自分自身にも偏見をもたずにQ&Aを繰り返して「わたしの目」を育てることが、それを拡げていくと他人や社会への偏見に気がつくことができるのではないかしら、と思う。
そして「こうしたい」と思ったことを行動にうつすことでしか、思っていることは表現できない。
という方向から「Try Everything」にも賛成だ。
映画の感想から、ちょっとおおげさなこと書いたけど、この映画で何がみえるかは、ほんとうにそれぞれだろうなと思うし(それほど多面性のある表現だと思う)、いろんなひとの感想をききたいな。
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