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拝啓、ブスだったわたしへ

学生のときのことを思いだすと、すきだった先生のことよりも、きらいだった先生のことをよくおぼえている。すかれたひとのことよりも、きらわれたひとのことをよくおぼえている。

すきなことではなくて、きらいなことが同じひとと結婚するとうまくいくんだって、などという話もある。


きらいなことというのは、つよく意識しているという意味で、すきなことと同じだけ(もしかしたらそれよりもつよいかもしれない)影響力がある。


このごろわたしが「きらい」と反応してしまうことは、最近よく目にすることば「ブス」だ。

使われかたやニュアンスは多様にあるのだけれど、「ブス」ということばを見る度にひっかかり、立ち止まってしまう。


なぜなら、わたしが紛れもなく正真正銘の「ブス」だったからだ。


わたしがブスだったのは、17歳から25歳くらいまで。いわゆる女子としての全盛期に、ブスだった。

ここでいう「ブス」の、わたしなりの定義は「どうせわたしなんて」の精神ただひとつだ。

見た目は関係ない、と言いたいところだけれど、「どうせ」は見た目にも出てしまう。自分への肯定感がひくいので、見た目をよくするための努力をしないし、それどころかむしろ「どうせわたしなんて」という自分の考えが正しいということを証明するために、見た目もブスである必要があるのだ。

合コンの席に汚い格好で行って、不機嫌な態度をし、相手にすこしも興味をもたない末に「ほらね、どうせ男なんて見た目しか見てないんでしょ」というそれと同じ構造だ。


わたしの場合の「ブス」は、男のひとへの恨みに向かってはいなかったけれど、「理解されない」ことへの不満や、嫌われることを恐れた結果の「ブス」だったのだと思う。

「どうせ誰にもわかってもらえない」という思いは、もともとは自分の考えを大事にする気持ちからきているのに、それはだんだんひとをバカにするようになる。「わからないひとたちが悪い」「どうせあのひとたちにはわからない」と。

それは「嫌われるまえにこちらから嫌う」「わかってもらえないからなにも話さない」という先手を打つかたちであり、要するに、試合放棄の不戦敗だった。


ただ、この仕組みはとてもわかりやすく、「じぶんのことが大キライ」かと思いきや、じつは「じぶん大好き」からきている。

「どうせ」という傲慢さは「じぶんをもっと尊重してほしい」ということだからだ。


わたしが「ブスだった」と過去形でいうからには「今はブスではない」と思えるのだけれど(わたしの定義においては)、では何があったかというと、何もない。価値観がひっくりかえるような特別な出来事など、ない。


もちろんきっかけとしては、こどもが産まれて「絶対的な味方、仲間ができた」ということはあったけれど、子持ちのブスもいるだろうから、それが解決へのすべてではない。

むしろ、子供を産んだときはまだ若く(24歳)、まわりの同年代のひとたちとの関わりがなくなって、社会と遮断されている気分にもなった。


ある日とつぜん「ブス」を脱退したわけではないけれど、すこしずつ変わったことといえば、「誰かからの評価」の軸から「自分自身の評価」軸へと移行したのだと思う。

そもそも「どうせ」の塊になるくらい、じぶんのことを尊重してほしいという気持ちがつよく、じぶん大好き要素がたっぷりあるので、自分自身へのハードルも高い。

それを越えるために必要なのは、ただひとつ「行動」だけだった。

誰かにわかってもらえるのを待っているのではなくて、伝えるために行動する。わかってもらえないひとを批判するのではなくて、じぶんから離れる。

「どうせ」の裏に控えていた「じぶん大好き」は、行動することで、すぐに表になった。


なにかをはじめるときに足りないのは、だいたい「自信」ではなくて「準備」だ。

「どうせ」は、自信がないことからきていると思ってしまうと、どうやって自信をもてばいいのかわからず、途方に暮れるけれど、自信をもつためではなく、「行動」のための準備(考えること)なら、自信などなくてもできる。ひとりでもできる。失敗しても死にはしないし、誰にも迷惑をかけない。

「どうせ」の傲慢さで、「じぶんの行動で、だれかに迷惑がかかる」と思いがちだけれど、だいたいのことは「そんなに影響力ねえよ」というような思い込みだ。


「きらい」と「すき」は、鼻息でフッとひっくりかえるくらいの表裏一体なのだ。

「じぶんきらい」は「じぶんすき」のいちばん近くにいる と断言して、このへんでスタコラ去るね。

辛辣でつめたいかもしれないけれど、ブスだったわたしが当時のじぶんに愛をもって言っていると思って許してね。



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