日本百名山踏破の記録
2016年8月14日日本百名山100座踏破
8月14日8時50分南アルプス聖岳3,013mの山頂に立った。日本百名山100座目の頂きである。自作の「祝 日本百名山踏破達成」タオルを広げ記念写真に納まった。山頂手前ではラストから登っていた私に先を譲っていただき晴れがましくも感激の中に山頂に立った。
光岳からの縦走では晴れ渡ることはなかったが、小聖岳を登る頃より青空が見え始め最後は富士山も私の全山踏破を祝って顔を出してくれた。なんと素晴らしい記念日だろうか。100座目が3,000m峰日本最南端の聖岳というのが良い。幕営登山での縦走登山だったことも良かった。南アルプスという近寄り難い山だったこともまた良かった。
日本百名山があることを知ったのはかなり古い。
1984年所属山岳会で踏破数のアンケート調査があり、私は13座であった。深田久弥氏の著書「日本百名山」も新潮文庫第2版を手にしていた。意識し始めたのはこの頃である。
最初の大きな百名山行は、1986年夏の北海道の山旅である。利尻岳、斜里岳、羅臼岳、大雪山、十勝岳、後方羊蹄山と六座を登った。この年の初めに四国の剣山にも登っており年間七座は、1994年の東北四座・伊吹山など三座と共に年間最多の踏破数である。
21世紀になり毎年数座に挑戦した。
挑戦していないのは2001年、03、08、14年のみである。2016年いよいよカウントダウンが始まった。春山の焼岳・苗場山(写真)で97・98座目、そして夏山で光岳99座、聖岳100座と全山踏破を達成した。1座目が1969年10月10日の久住山であり、実に46年10ヶ月間での達成である。
百名山で一番はと問われたら躊躇なく剣岳と返すだろう。
一番記憶に残り感動もし青春を掛けたのが剣岳である。21歳で鹿島槍ヶ岳国境稜線から見た剣岳の威容は、山の虜にしてしまった。25歳で初めて剣沢に入り源次郎尾根、八峰を登り、26歳春には早月尾根を、30歳春には小窓尾根を、32歳春は初代会長等とも黒部ダムで合流した合宿を真砂ベースで実施した。47歳でサトパント遠征の訓練で登ったのが五回目である。そして70歳にして再び剣岳山頂に立った。
北海道は五回計画した。
1996年一回目を計画したが津軽海峡を前に車トラブルで方向転換を余儀なくされ北海道が遠くなった。
二回目で初上陸1986年夏利尻岳、斜里岳、羅臼岳、大雪山、十勝岳、後方羊蹄山の6座を登った。
三回目は20年後の2006年夏トムラウシ、阿寒岳を登った。だが予定の幌尻岳は林道崩壊で入山できなかった。
そして四回目6年後2012年夏に念願の幌尻岳(写真)に立った。登ろうとして機会を逃していた幌尻岳は特に記憶に残る。
更に五回目を2018年に利尻岳を計画したが、なんとなく消滅した。
車トラブルで北海道から転進したのが1996年47歳の夏、東北の百名山である。
青森県に入った途端、車がダメになりかなり古い軽自動車に買い替えて一般道を走り早池峰・鳥海山・月山・筑波山と登りながら南下した。九州までの帰路についた。
気になっている山がある。
100座踏破しても気になるのが大峰山である。女人禁制の山上が岳に登り日本百名山踏破と記録しているが、大峰山の最高峰八経が岳には登っていない。ここを登らないとすっきりしないと何度か計画したが、コロナ禍で実現していない。
思い出深き百名山
次男と登った薬師岳、黒部五郎岳や女性と二人大雨をシャクナゲ株下で夜を過ごした屋久島宮之浦岳、一人で縦走した八が岳、雪深き飯豊山や朝日岳など、それぞれに思い出深き物語がある。
移動手段は殆どマイカー利用
100座踏破に要した山行回数では51回だが、39回は全てマイカーで移動している。残りの2回は飛行機+レンタカーで、10回は汽車等での移動である。マイカー主体でよく事故を起こさなかったものである。ただ大山7回のうち1回は衝突事故が起きた。路面凍結での事故で正面衝突の危機があった。
5年前に全山踏破したが、それぞれの山の魅力を十分に堪能したかと言うとそうではない。最短コースでの登頂が多く、もう一度登り直したいとの思いは強い。特に東北の山に登りたいと日本二百名山を含め計画はしたが、コロナ禍で実行できずにいる。膝不調も加わり、どうなることか(涙)
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