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ヒマラヤ7000m峰への挑戦と挫折④出国からデリー入国

「1997年長崎県山岳連盟サトパント峰学術登山隊」の発足から隊員募集、準備、合同訓練、インド関係機関との協議など投稿しました。
いよいよ7月28日出発となり、行動記録を投稿します。
登頂断念記より抜粋します。

長崎県サトパント遠征隊の構成

こんなメンバーでした。
高体連所属の先生4名、公務員1名、自営業3名、大学生1名
隊長:S(教員)
登攀リーダー:MS(自営業)
調査・記録:MU(教員)、MO(教員)
装備・食料:FJ(自営業)、FR(公務員)
会計:KU(教員)、KB(大学生)
輸送:MK(自営業) 

サトパント峰はヒンドゥー教の聖山

パールと国境を接し、ガルワールヒマラヤの盟主と言われています。
更にバギラティ、シブリンらと共にヒンドゥー教の聖山の一つです。
サトパントとはヒンディー語で「真理への道」という意味を持っています。
このサトパントへの道は、これら聖なる山々に降った雪が解けて流れるガンガ(カンジス川=聖なる川)沿いに続ます。
そのガンガは灰色に濁り、雨期で増水していました。
そしてバスが通過する町々、宿泊した町はヒンドゥー教の聖地です。
バスの終点ガンゴトリはヒンドゥー教最大の聖地です。
聖地への記録を辿りますが、まずはデリーへの入国までです。

出国からインドデリーへの入国
 

7月26日(土)長崎・佐世保から出発
台風接近のため長崎空港から関西空港への航空便は欠航の可能性大となりレンターカー2台を確保し長崎・佐世保の両方から出発します。夕刻、風が強まり山陽道吉備サービスエリアで夜を過ごします。夜中前台風は通過し、風は収まりました。
 
7月27日(日)インドデリー入国
空港内でレンタカーを返却し、荷物整理と出国手続き準備、超過手荷物が安くなるよう交渉します。
この手続きが大変でした。輸送費をできるだけ浮かすために手荷物扱いで機内に最大限持ち込もうと言うのですから。結局50kgほどオーバーで約20万円の追加料金を取られることになりました。
14時50分、AI319便は離陸しました。
デリー国際空港現地時間21時06分着陸。
入国手続きを済ませ迎えの車でジャンパスホテルに着いたのは23時でした。

人口の80%をヒンドゥー教徒が占めるこの国では、基本的に飲酒の習慣がない。ホテルのレストランに入ったが、今日はビールがないと言う。仕方なくライムソーダーで乾杯。その後部屋に入ってからルームサービスではいつでもビールが手に入ることが分かり、インド産ビールと日本から持ち込んだウィスキーで乾杯し直し就寝は1時30分。

通関手続きとインド登山財団・日本大使館訪問

7月28日(月)通関手続きとインド財団訪問
アナカン(別送隊荷)が輸送担当隊員でなければ通関できないとのこと。
通訳を急遽雇い税関へ。
手続きは大変だったようです。輸送担当の報告より。
『エアインド国際貨物事務所に行くが、昼休みで2時から受付とのこと。2時から書類を持って部署を廻る。4か所目まで来たとき、その部署の責任者がランチから戻っていないと言い取り合ってくれない。午後3時を廻っているのに。役割が決まっているようで他人の守備範囲は手を出さない。「明日は大丈夫」という通訳の慰めで引き上げることにした。』

7月28日デリーホテル近く
ホテル前にて

午前中、隊長をはじめ何人かが現地旅行代理店シーカル社へ。打ち合わせを行い旅行代金14,640US㌦を支払います。

残った私等は山用生鮮食料の調達のため街に出ました。
デリーの中心街コンノート・プレイスを目指します。
ここは都市計画ニュー・デリーの中心で、地下に商店街を持つ公園を中心に同心円状にビルが建ち並び、道は放射状に伸びています。
我々のホテルは、この放射線状の大通りの一つでした。

ホテルを出て10分も歩けばコンノート・プレイスに着くのですが、不案内な我々はオートリキシャーに乗ることにしました。
インドではタクシーより安い交通機関としてオートリキシャーが普及しています。これは日本から伝わった人力車が人の変わりを三輪オートバイがやっているものです。前が一輪、後ろが二輪、屋根には幌が掛けてあり、左右には何もない。客は3人まで詰め込めます。
ホテル前にたむろしているオートリキシャーは、観光客目当てのボッタクリが多いそうです。もっとも日本人を見て吹っかけてこないのはいないようです。
値段は最初は一人2ルピー、6人2台で12ルピーでしたが、最後は2台で3ルピーとなり得した気持ちになりましたが・・・。

リキシャ
オートリキシャー

彼らが言うショッピングセンターに連れて行かれました。
インドの交通道徳という観念がないと感じた。道路三車線に区切ってあっても幅があれば四台で走る。無理な追い越しが当たり前、クラクションの音で溢れています。大半の車にはウィンカーもないので動きが読めません。歩行者も横断歩道など気にしないようです。
我々を乗せたボッタクリ・オートリキシャーは、コンノート・プレイスが直ぐなのに、街中をクルグルと廻ります。
着いた所は怪しげなお土産屋でした。
運転手に「食料品を買いたいと言っただろう」と文句を言うと「No Problem」と言って、仏像だの家具などが並んだ店に引っ張り込もうとします。
「これが話に聞いたインド人のノー・プロブレムか。」と思いました。
今はそれどころではありません。なんとか食料品店を教えてもらおうとしますが同じことの繰り返しで、結局、手ぶらでホテルに戻りました。
 
午後からインド登山財団(IMF)に全員で出かけ、リエゾンオフィサー(我々に同行し行動内容をIMFに報告する人)と初顔合わせし、一緒にIMF担当官に挨拶。リエゾンオフィサーとのブリーフィング、手続きを無事終了しホテルに戻りました。

7月28日財団
IMFの前で

夕食はヒルトンホテルで高級インド料理をとなり、まだ懲りていない我々はオートリキシャを利用しましたが同じ繰り返しでお互い喧嘩腰になりました。結局歩いてコンノート・プレイスに辿り着き、目に付いた中華料理店での夕食となります。9人でチィップ込み2100ルピー、日本円7350円でした。


7月29日(火)通関手続きと日本大使館訪問
輸送担当再び税関へ。輸送担当の続きはこうです。
『今日済ませないと明日の出発に間に合わない。これは実弾が必要だとの通訳のアドバイスでポケットにルピー札束を膨らませてホテルを出発する。10時前に到着、開くのを待って昨日と同じように部署を廻って行く。正式のわずかな支払いにソデの下、それに哀願と脅しまがいの言葉をはき散らしながら、ついに最終段階に来た。二つの書類の間に500ルピーずつはさむ。これが相場だという。1ルピーが3円。日本との物価の差は10倍位だった。』
二日間の通関手続きが無事終わりました。
 
午前中、隊長他はシーカル社、続いて日本大使館を表敬訪問し計画書を渡し概要を説明します。不測事態の発生時のバックアップも依頼します。
昼、再びシーカル社に戻り、社長のクマール氏にインド料理をご馳走になりました。クマール社長は一代でシーカル社を作り上げたやり手実業家のようでした。
 
ベースキャンプで使用するインド国旗はなんとか入手できました。
 
次回は、ヒンドゥー教の聖地ガンゴトリへのバス移動を投稿します。



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