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山登り人生vol56N君13回忌追悼登山

私24歳。追悼者享年25歳、私が入会する9年前の出来事です。
岩登りホームグラウンドの英山には慰霊のケルンが建立されています。
地元山岳会に入会して3年目、故N氏の13回忌追悼登山に参加しました。

山日記には特段のコメントは記録していませんが、
当日、配布されたガリ版刷り9ページの資料が、手許にあります。
改めて遭難死亡事故の悲しさや厳しさが伝わり、
安全登山への思いが強くなります。

英山の頂は我々が言う場所ではないようですが、
我々は岩場のところを英山と呼んでいます。 

No136故N氏13回忌登山(英山) 

昭和48年11月11日
Y会長、当時捜索隊員のK氏、捜索隊員で私と同じ職場のH先輩とN先輩、遺族など25名参列
※11月14日 関門橋開通
資料(故N君の霊に捧ぐ「N君遭難記」)より一部を記述し
当時を振り返ります。

2020年時、西側から眺めた英山

 はじめに

昭和36年11月19日(日)朝7時40分頃、
「黒髪山に行く。」と家を出るとき、
母親から「行くな。」と止められたが、
山に登らないと体がムズムズして堪らないと言い残して、
元気に出掛けた会員N君は、遂に不帰の客となった。
・・・今年十三回忌を迎え・・・追悼登山するにあたり・・・二度とこのような事故を起こさないように前轍の戒とした。 

1山とN君

25歳、昭和36年4月入会。
・・・入会後、会の月例会、山行、県体等に積極的に参加し、その熱心さと共に、真面目な山行態度は会員の認めるところであった。
同君は次第に岩登りに興味を持ち始め、会の岩登り講習会には欠かさず出席し同年9月例会で阿蘇鷲ヶ峰・高岳縦走参加の山行報告文を発表し併せて、10月6日付長崎新聞夕刊にも掲載された。
同山行の反省会においても「危険対策」等について討議がなされ岩登りに対する情熱を燃やしていったのであった。・・・。 

2単独山行

会員で親友のT君の話によると、
一緒に登山する予定だったが、急に職場の野球試合があり取り止めたので、N君も中止したと思っていたそうである。
結果的にみてN君は単独で岩場の登攀を決行した。 

3遭難報と捜索の概要

11月19日朝、日帰りの軽装で家を出たまま
20日朝になっても帰宅しないので、父親より勤務先に届出があった。
同人事課で調べたところ同行者はなく、何かの事故が起こった気配が濃く
同要請により・・・先発班7名が11時出発した。
午後1時頃、2班Y会長ら4名が出発した。
先発班は蔵宿に到着して、
地元警察より1名、役場より10名程度の応援を得て
午後1時龍門を経て黒髪山に入り2班に分かれる。
N君の最近の模様から推察して岩場をポイントとして捜索にあたるとして
雄岩や象の鼻等の岩場を重点的に探したが何等手掛かりなく
午後3時15分、黒髪大権現に合流。
これより4名が南尾根、南端の英山岩場へ行くことになり
他は往路を下山して車を上有田に回送し、
英山より下る4名を待機することになった。
・・・4名は宵闇迫る午後5時55分頃
英山岩場の南側直下、山林内約20m下方の地点で、
2本の立木に食い止められた変わり果てたN君の遺体を発見した。
2名は現場に残り、他の2名は麓に下山し、
待機中の仲間に知らせると共に、有田警察署に届出た。
地元警察官の現場検証が行われた。
遺体は・・・会員の手によって急造担架で下山し、地元病院で検死が行われて、佐世保の家族のもとに帰った。 

4死因及びその状況

遭難したのは英山の頂上直下の斜面、距離約120mの岩場で、翌21日の現場検証によって
頂上まで余すところ10mまで登攀したところで、
ホールドとなる岩が剥がれたものと推定され、
これより10mの壁を転落し、
その下部の・・・岩棚で頭頂部を強打し
・・・その反動で・・・更に下方の逆層スラブ100m斜面を滑落し、
次第に速度を増して山林内に入り
更に20m程の立木で遺体を停止させたものと推定された。・・・。 

5遺留品と遭難時刻

・・・時計は11時22分を指して止まっており、
遺品のノートには克明に記入されており、当日の上有田到着時刻などと併せ考えて、その時刻が事故発生時刻と推定された。・・・
遺品の散乱状況は、岩場概念図のとおりであった。 

6現場検証

・・・K会員は21日出頭を求められM会員とともに現地に向かった。
・・・現場検証が終わって下山し・・・事情聴取が行われた。
・・・K会員のアリバイ等求められるに至っては、警察は単なる遭難事故とは見ていないと直感した。岳友の死の悲しみを一時忘れる程のショックを受けた。・・・
・・・どうして探し当てたのか・・・。
後で判ったことだが、N君の所持金の行方もポイントであった。
・・・N君の記録から残金が一致し・・・
単純な単独行による事故と判明されたので・・・。

今でも忘れない、
山行の記録がこんなに大切であるかを、
この時程痛感したことはなかったとK会員は語っていた。 

7むすび

・・・「長男を亡くして悲しみで堪りませんが、せめて山好きで、山で死んだことは慰めです。」と語られた母親(現在故人)ご心情を察するとき、切ないものがある。
「山は舐めるべからず。山は恐るべからず。」 

付 記

昭和36年11月19日 命日
昭和36年12月24日 
 五七忌明に際し会員一同、父上様と共に英山頂上に慰霊のケルンを建立。
 麓よりかな石、セメント、水等担ぎ上げ、
 ケルンの第一石は父上様が戒名他記入の丸長小石を納められ、
 頑丈にセメントで固めた。
 香華水果物等を供え忌の供養を行った。
 これに先駆け、武雄営林署の許可を得た。

会創立30周年記念誌より当時の写真

昭和37年11月18日 一周忌慰霊登山
昭和38年11月08日 三回忌慰霊登山
昭和40年11月14日 慰霊登山
昭和41年11月11日 慰霊登山
昭和42年11月10日 七回忌慰霊登山 
 会員NO氏の世話でケルンへ碑文板(陶器)装着
昭和48年11月11日 十三回忌慰霊登山

資料を見ながら、
事故発生から五七忌明には慰霊のケルンが建立され驚きです。
会として纏まっていたようです。
「・・・」は中略した箇所です。

遭難現場の右側。2017年、岩稜ルートの登攀
同岩稜ルート
遭難現場付近の岩場

 

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