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忘れられた経が岳南壁

初めてこの壁を登ったのは21歳。1970年11月、山岳会に入って初めての岩登合宿だった。

10月31日金泉寺山小屋に三々五々集結。私は八丁杉を陽が落ちてから登り始め20時過ぎの小屋入りだ。皆が集まったのは22時をまわっていた。総勢17名の大合宿だ。

1972年金泉寺山の家

1日主要メンバーは南壁に向かう。まだ岩登りは早いと言われた私は五家原岳に向かいボッカ訓練。横峰越から黒木に下山してつげ尾に登り返し南壁に向かった。岩登り、今日は見学のみで金泉寺山小屋に戻った。

3五家原岳周回 (6)

翌2日主要メンバーを送り出して、お昼のにぎりめしを準備して9時小屋をでる。この頃、先輩後輩関係は厳しく岩もボッカが先。飯炊きは新人の仕事だった。

南壁では中央凹角をH先輩・K先輩が攀っている。今日も見学だけかと諦めていたがH先輩がのぼるかと尋ねて来る。

気にかけてくれていたH先輩の一声で中央凹角に初めて取付くことが出来た。

H先輩がトップでのぼりミッテルで私が続いた。上から下からと先輩達の声が届く。K先輩が苦労した個所はなんとかクリアするが小さなスタンスで足が震えてしまう。ミシンを踏むと言うことらしい。51年も経ったがミシンを踏んだ事実だけはしっかりと覚えている。テラスで自己ビレーをとりラストのS同期生を確保した。1ピッチの短い登攀だったが、この記憶は鮮烈だ。ルートはまだ上部に続いているのだが、新人はここまでで懸垂下降した。当時は重登山靴に手作りの安全ベルトだった。下2枚目からは2年前撮ったもの。

1970年経ガ岳南壁

マンサクと南壁 (63)

マンサクと南壁 (64)

隣の壁で悲鳴が聞こえた長崎大学山岳部がBフェイスで宙ぶらりになったとか?H先輩D先輩がそのフェイスに取付いた。長大生が宙ぶらりになった個所は随分と苦労されハーケン一本追加でクリアされたらしい。

マンサクと南壁 (66)

順番が逆になったがとY先輩がノルマルルートに案内してくれた。今回もミッテルで支点ではロープ架けかえに苦労した。2年前の現場はすっかり苔むしルートははっきり判らなかった。多分黄色いラインがルートかな?

マンサクと南壁 (70)ノルマル

マンサクと南壁 (71)

すっかり忘れ去られた経が岳南壁である。

この岩屋ではたまには泊まりもした。岩屋からのルートも錆びたボルトリングが昔を物語る。

マンサクと南壁 (57)

マンサクと南壁 (58)

最終日の3日は笹岳西壁に先輩達は取付いた。中央ルート、右ルートなのぼられたが、我々新人は峠岩場での確保訓練だった。先輩が滑落者となり、それを確保するのである。こんな体験で初の経が岳南壁は終わった。

この頃は、テントの中で山小屋の中で良く歌った。この合宿でもこんな歌をみんなで歌った。

マンサクと南壁 (10)

多良山系には他にも板川内の岩場がある。今は登る人はあまりいないようだ。ここは経が岳南壁と違ってアプローチは短く初中級者向きだが、ボルダリングが主流の今見向きされていないようだ。

概念図

板川内 (19)

他にも国見岳西側や小嶽小屋裏の岩場があった。多良岳に登る途中のこの岩場(下)も登ったが、知らなかったとは言え磨崖仏があり罰が当たったのではないだろうか?今は登る気がしない。

磨崖仏

経が岳南壁に取付くクライマーは1970~1980年代までが最後ではなっかたかと思われる。

私が最後に登攀したのは1984年3月だった。


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