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大叔父の戦争体験

博多祇園山笠(中止になりましたが)の期間も終わりお盆の時期の終戦の日が近づくに連れ思い出す話がいくつかあります。

ちょっとエグい話なので引き返すなら今です。

子供の頃に聞いた話なので記憶が断片的でかつ詳細が不明ですが、とにかく大叔父は戦時中、南方のどこかに配置されていたそうです。

以下大叔父の口述

所属する小隊が森の中で小休止をした際
近くに流れる川で水汲みを命じられ
水を汲んで顔をあげたら10mくらい離れた対岸に敵がいてコッチを見ていた。

一瞬緊張感が走ってすぐ敵はライフルの銃口を向けて来たのですぐに反転して森の中に逃げた。

数十発の銃声が聴こえて
左脚のふくらはぎに焼きごてでも当てられたくらいの熱さと衝撃を受けたが、何とか足を引きずりながらも逃げて味方のところまで来た。

小隊で敵の数もわからないので、とりあえず身を隠して敵が去ってしまうのを息を殺して一晩。

敵の気配が無いことを確認してから、やっと這い出て、近くの川で傷口を洗った。

アルコールとか焼酎みたいな強い酒が有れば良かったがそんなものは無いので仕方がなかった。

それから数日後、敵に包囲されて投降。
捕虜として連行され収容所に入れられる。

収容所で左脚の傷口が痛み始め、青黒いアザが傷の周囲を取り巻き始めた頃、偶然同じ収容所に日本軍の軍医が収容されてきたので、負傷の具合を見せた。

脚を切らないと死ぬらしいことが分かった。

軍医は収容所に掛け合って
ノコギリとアルコールと布を借りて来た。

同じ部屋の捕虜数人に手足を押さえさせて、麻酔無しで膝の下から山型に切り落とした。

一週間くらい痛みにうなされた。

そのうち米軍の収容所に移されて、
米軍の軍医から改めて手術を受けた。

今度は谷型に切って、そこへ肉を丸め込むようにして縫合した。

終戦を迎えて無事に帰国。
焼夷軍人として国からの補償を受けながら、その後の人生を生き続けた。

片足が無い訳をある時聞いたら教えてくれました。
子供は無神経に何でも質問する。

戦争体験者は大きく分けて2種類。

戦争体験をあっけらかんと話す人と
涙ながらに絞り出すように話す人

体験した内容でかなりその後の人生変わってくる。

大叔父はあっけらかんと話してくれました。

自分より苦労した人のことを知っていて、
自分のした体験なんか大したこと無いと思っていたのでしょうか?

いづれにしても
戦後生まれで、戦争の気配すら感じる事なく育った世代からは想像もつかないような体験であることは間違いないですが。


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